帝国海軍厚木航空基地 (1939-1945)

【1.建設目的】  日本海軍は1938年(昭和13年)度から航空母艦搭載機の訓練向上のため艦隊航空部隊訓練場の整備予算を計上し、1940年(昭和15年)度より未就役艦の搭載機訓練場の整備に着手した。  これにより艦上機用の訓練飛行場として「厚木」、「出水」、「高知」の3ヶ所が候補にあがり「厚木」と「高知」が決定された。  この両候補地とも飛行場の本来の所在地名が付けられていないのが興味深い。  厚木に関しては、1939年12月23日付けの「昭和十五年度予定経費要求説明書(臨時部) 海軍省」で「厚木」の名称で提出され、 以降も海軍予算書は建設目的未就役航空母艦搭載機訓練専用飛行場ですべて「厚木」で提出されている。  配備予定機数は艦上爆撃機56機、艦上偵察機28機であった。

【2.なぜ厚木か】  現在の神奈川県大和市と綾瀬市に位置し、厚木市とは10km以上離れている厚木基地の名称由来には様々な説が、 その中でよく耳にするのが「敵を惑わすための基地隠ぺい説」だが、 下記のように「厚木」に限らず日本各地の飛行場にも所在地と飛行場名称が違うのが多いので日本海軍は隠ぺいに必死だったのだろうか?  日本海軍には名称付与法が存在し、それに則って艦船や航空機などの名称が付与されている。  航空基地の名称に関する細部の法律は1943年までなく、それまで慣習となっていた「全国的に知名度がある」地名などが採用されていた。  厚木飛行場の建設場所は「大和村」「綾瀬村」「渋谷村」にまたがり、周辺には「高座郡」さらに広くは「相模」などの地名がある。  基地の名称候補は沢山あるわけだが「大和」は奈良県が有名、「渋谷」「綾瀬」は東京の地名を連想、また「綾瀬」は日露戦争で一度も戦わず旅順沖で機雷に触れ沈没した戦艦「初瀬」を連想するため却下した説、 「高座」は「高知」と紛らわしい、また高座は「後座」=教官を意味し訓練飛行隊にはふさわしくない。  「相模」は既に陸軍が「相模陸軍飛行場」の建設をすすめていた。  等々候補名を消去すると近郊に位置する全国的に知名度のある宿場町「厚木」しか無かったのではないだろうか。 (残念ながら「厚木」を採用した記録は見つかっていません)
【3.航空基地名称附与法】  海軍の名称付与には艦艇、航空機、航空隊については明治以降詳細が決められてきたが、航空基地に関しては曖昧であった。  1916年3月17日に規定された「海軍航空隊令」では航空隊に関し「海軍航空隊ハ其ノ所在ノ地名ヲ冠称ス」とあり、その後1942年10月26日一部が改正された。  この改正は作戦用航空部隊は3〜4ケタの数字に変更されたが訓練部隊はそのまま使用するという内容だった。  1943年9月18日により詳細な「航空基地名称附与法」が制定されたが、その中で「地名を冠する航空隊は使用航空基地と同一とする」との規定が設置され、  さらに「所在地の市町村名、または錯覚するような地名は近郊の地名にする」内容が付加された。  この法令により「厚木海軍航空隊」が使用し、所在地の地名が別の場所を連想する「厚木」航空基地の名称は変更されることはなかった。


アメリカ軍駐留後も使用された相模野海軍航空隊の司令部の建物
現在は建替えられている。
【飛行場所在地名と航空隊名が異なる主な海軍航空隊】
  • 神社の名称
    • 鹿島航空隊(茨城県)
    • 香取航空隊(千葉県)
    • 美保航空隊(鳥取県)
  • 山、湖等
    • 筑波航空隊(茨城県:山)
    • 北浦航空隊(茨城県:湖)
    • 霞ヶ浦航空隊(茨城県:湖)
    • 大井航空隊(静岡県:川)


  • 地名等
    • 松島航空隊(宮城県:景勝地)
    • 名古屋航空隊(愛知県:市)
    • 三重航空隊(三重県:県)
    • 博多航空隊(福岡県:湾)
    • 舞鶴航空隊(京都府:軍港)
    • 呉航空隊(広島県:軍港)

【4.相模野海軍航空隊開隊】  厚木飛行場の工事は着々と進み、1942年3月に滑走路、格納庫などが完成。  3月30日から横須賀海軍航空隊相模野分遣隊が旧式の艦上爆撃機44機を使用して教育を開始した。  同年11月1日に独立して「相模野海軍飛行隊」となったが厚木飛行場設立の目的とは異なる飛行機の整備員養成部隊であるため、海軍では厚木飛行場に配備する飛行隊の名称に「厚木」を使用しなかった。  この「相模野」の名称付与についても海軍は苦慮したようで、「厚木」は飛行場作成予算取得経緯からも未就役航空母艦の搭乗員訓練を担当する部隊に与えるべきで、 先の近郊各地名では海軍飛行隊には適切でないためにあえて陸軍飛行場と紛らわしいが部隊名(飛行場名でない)として飛行場北西の地名「相模野」に決定された。

【5.厚木海軍航空隊開隊】  厚木飛行場建設工事が進む中、海軍は航空隊の配備計画を作成し厚木は航空母艦搭載機補充基地兵力の一か所として指定され艦上戦闘機3飛行隊(54機)を配備する予定となった。  しかし1942年6月のミッドウェイ海戦で日本海軍は主力空母4隻とその艦載機全てを失い、この計画を大幅に変更せざるを得なくなり 1943年4月1日に開隊した厚木海軍航空隊は当初の目的とは異なる実戦戦闘部隊であった。
厚木海軍航空隊の開隊準備は1か月前から「相模野海軍航空隊」内で行われ、地元はこの時初めて「厚木航空隊」の名称を耳にした。  これに対し地元大和、綾瀬、渋谷(渋谷村は後に大和村と合併)の3村は「@我々は土地を提供しA基地隊員の食糧や宿舎を提供しているのになぜ「厚木」なんだべェ」(”べェ”はこの地域の方言)と合同で即座に航空隊名称を 慣例となっている所在地付近にふさわしいものに再考するよう横須賀鎮守府に陳情している。  しかし2度の陳情にもかかわらず名称変更は受け入れられることはなかった。

徹底抗戦を唱えた302空(厚木航空隊)の格納庫
現在も使用されている。

大和市内にある「厚木空神社」

【6.基地管理】  基地の管理は常設部隊が担当となっている。 厚木海軍航空隊は開隊後の7月1日に新設された北東方面担当の第12航空艦隊 第51航空戦隊に編入された。  1944年(昭和19年)2月20日には第203海軍航空隊に改称され、3月から北千島の防衛任務につき厚木飛行場には常設航空隊が不在となった。  日本海軍では基地業務責任者を明確にするために「航空基地管理ニ関スル件」が1943年(昭和18年)1月7日を定められている。  厚木航空隊の転出後、厚木航空基地の管理部隊は「相模野海軍航空隊」が指定され担当、その後5月15日に第1081海軍航空隊に変更され、7月31日からは第302海軍航空隊に変更され終戦に至っている。  なお、第203海軍航空隊は10月にフィリピンに進出し「特攻」作戦を繰り返し、戦闘機と搭乗員を消耗し福岡県の築城航空基地で終戦を迎えた。

【7.第2相模野海軍航空隊開隊】  整備員初頭教育部隊として「第2相模野海軍航空隊」が1943年10月1日に厚木飛行場に開隊された。  開設にあたり「(仮称)綾瀬海軍航空隊」として準備にあたっていたが、開隊直前の9月18日に航空隊の名称付与に関する法律が改正され幻と終わった。  この名称付与法では同一基地内に2個以上の航空隊がある場合は第1、第2・・と名称を付与することが義務付けられた。  これにより「相模野海軍航空隊」は「第1相模野海軍航空隊」に「(仮称)綾瀬海軍航空隊」は「第2相模野海軍航空隊」に改称された。  ではなぜ厚木を基地とする「相模野」を「厚木」に改称しなかったのかというと、実戦部隊でなく訓練部隊であったからであり整備員初等教育訓練飛行隊「綾瀬」はそのため「相模野」を継ぐことになった。
●厚木飛行場進入のランドマーク●
相模湾の航空母艦から厚木基地への進入コースとして
@江の島
A境川
B日枝社の樹齢300年の楡の木
ここまで飛行すると左側に厚木飛行場が確認できる。

手前が横浜市と大和市の間を流れる境川、境川は約1万年前は相模川の本流だった。
写真中央の大きな木が日枝社の楡の木

【8.終戦そして反乱】  1945年8月15日、日本政府はポツダム宣言を受けて戦争が終結した。  小園安名司令率いる厚木海軍航空隊(302空)は対米徹底抗戦を主張し「反乱軍」となったのは余りにも有名である。  終戦翌日には「反乱などどこ吹く風」とばかり厚木基地に保管してあった米、味噌、醤油、酒などが放出されると聞いた周辺住民は倉庫に駆けつけ手に持ち切れないほどの保存物資を受け取っている。  しかし翌日17日は一変し、物資を取りに来た住民は突然銃を構えた兵士から拒絶された。  8月17日、連合軍は日本政府に「厚木進駐先遣隊」到着が8月23日とマッカーサー最高司令到着は8月25日に到着する」と通告してきたのである。  マッカーサー到着日が近づいても厚木航空隊の反乱収拾の目途がたたない日本政府はマッカーサー到着を厚木以外の木更津基地などに変更できないか連合国軍と交渉したが受け入れられなかった。  日本政府は八方ふさがりの中、8月22日夕刻から23日朝にかけて関東地方に台風が通過。(これが日本政府にとっての神風となる) これ幸いと日本政府は連合国最高司令官宛に「厚木の滑走路は着陸可能だが滑走路以外は車輪がめり込み滑走困難に遭遇しつつある」と24日に打電し時間稼ぎを図った。 翌日連合国最高司令長官より48時間の延期の電報を受け取った日本政府には歓喜する程の吉報であった。
連合国軍機が着陸できないように滑走路に置かれていた廃機は羽田の「大安組」の社長が集めた作業員約200名により8月25日徹夜で片づけられた。 作業中にも基地内では銃声や酒を飲んだ兵士たちが奇声を上げる中の命がけの作業も翌朝には滑走路が使用可能の状態に復旧した。


◆ちなみに連合国軍はマッカーサー進駐先遣隊(日本占領軍)は厚木以外の東京周辺の飛行場も検討していた。

【9.連合軍先遣隊の到着】  必死の滑走路の片づけが終わった8月26日午後F6Fヘルキャット15機が厚木上空に飛来し偵察飛行を行った。  さて、ここでアメリカ陸軍に負けたくないアメリカ海軍は日本本土1番乗りを計画、27日硫黄島を朝離陸したVPB−116のPB4Y−2が厚木に着陸している。  強行着陸した同機は日本軍と接触しようとしたが車両で進路を塞がれそうになりあわてて離陸し硫黄島に戻っている。  8月28日朝沖縄を出発したテンチ大佐率いる先遣隊146名がC47×15機、C46×15機、C54×17機、B17×1機の計48機3陣に分け厚木に到着、  直ちに「日本本土緊急航空基地」が発足しマッカーサー到着に備え通信機器、夜間着陸設備の設置を始めた。

◆先遣隊が到着し飛行機からおろしたジープが飛行場内の荒れ地を縦横無尽に走る様子をみていた飛行場周辺の住民は、 目を丸くし「これじゃ戦争に勝てねェ」と思わずつぶやいた。
◆マッカーサー到着の朝、東京上空を編隊飛行(Power Display)していたB29がエンジントラブルのため先遣隊によって設置されたレーダーや無線が整備されている厚木に緊急着陸している。  無事着陸したB29は駐機場に向かう誘導路で脱輪し車輪が土にめり込み動けなくなった。  マッカーサー到着を控え「真っ青」になったアメリカ陸軍は滑走路の端で動けなくなったB29をどかす作業に日本軍のトラックや戦車を動員しやっと駐機場に移動することができた。  まさに8月24日の日本政府の電報を裏付ける結果となった。

【10.マッカーサー到着】  8月30日マッカーサー一行が厚木に到着、約340機の離着陸に対し日本で最初の航空無線による航空管制が行なわれ、この日厚木飛行場は世界で一番忙しい飛行場となった。
 厚木に到着したマッカーサー一行は厚木基地を車で出発、基地東の道路を南に向かい途中、長後付近で住民から井戸水をもらい飲んでいる。  沿道は日本の警官に警備されているが、いつ発砲されるか冷や冷やの行軍だった。 戸塚を通り無事に横浜のグランドホテルに到着「日本占領」はうまくいくと確信した。  1945年9月2日、調達要求書(P.D.)JPNR第4845号により厚木飛行場は正式に接収された。  それに伴い沖縄からアメリカ陸軍第5空軍の第49戦闘航空群3飛行隊(P38)、第3爆撃航空群4飛行隊(A26)と第3緊急救難飛行隊(SB17G)などが進駐、厚木基地は第5空軍の航空基地となり、 アメリカ陸軍機が整然と駐機する傍らにかつて本土防衛を担っていた雷電、零戦、月光などの日本海軍機は草地に無造作に並べられているのが対照的であった。


8月28日厚木飛行場に到着した先遣隊

No.航空機到着
時間
所属(任務)乗員
1C-47 (71)9:00GHQ, FEAF, 5th AF, 54TCW, ATC 通訳、カメラマン (先遣隊)テンチ大佐他19名
2C-479:0363rd. SG, HQ 5th AF(作戦要員)乗員11名
3C-47 (55)9:06航空要員乗員4名
4C-47 (65)9:09航空通信乗員4名
5C-47 (68)9:12航空通信乗員11名
6C-47 (9)9:15航空輸送乗員1名
7C-47 (42)9:18航空輸送乗員6名
8C-479:21航空輸送乗員1名
9C-479:24航空輸送乗員6名
10C-479:27作戦要員乗員3名
11C-479:30作戦要員乗員3名
12C-479:33作戦要員乗員3名
13C-479:36作戦要員乗員2名
14C-479:39作戦要員乗員3名
15C-479:42GHQ乗員6名
16C-46 (7769)10:00GHQ乗員14名
17C-46 (8348)10:03GHQ乗員10名
18C-4610:06航空輸送乗員1名
19C-4610:09航空輸送乗員1名
20C-4610:12航空輸送乗員1名
21C-4610:15航空輸送乗員1名
22C-4610:18航空輸送乗員1名
23C-4610:21航空輸送乗員1名
24C-4610:24航空輸送乗員1名
25C-4610:27航空輸送乗員8名
26C-4610:30航空輸送乗員2名
27C-4610:33航空輸送乗員7名
28C-4610:36航空輸送乗員1名
29C-4610:39航空輸送乗員1名
30C-4710:42作戦要員乗員なし
31C-4710:45作戦要員乗員2名
32C-4610:48作戦要員乗員2名
33C-54 (5551)11:00作戦要員乗員2名
34C-54 (2564)11:03作戦要員乗員2名
35C-54 (2329)11:06不明乗員なし
36C-54 (2361)11:09不明乗員2名
37C-54 (2371)11:12不明乗員4名
38C-54 (2390)11:15不明乗員2名
39C-54 (2404)11:18不明乗員2名
40C-54 (2330)11:21不明乗員4名
41C-54 (2563)11:24不明乗員なし
42C-54 (2586)11:27不明乗員3名
43C-54 (7135)11:30不明乗員なし
44C-54 (5548)11:33不明乗員3名
45C-54 (7142)11:36不明乗員2名
46C-54 (7201)11:39CE(不明)乗員2名
47C-54 (7169)11:4263rd SG(不明)乗員2名
48B-17(通信専用機)14:00USASTAF(空中航空管制)乗員14名

参考資料:大和市市史、綾瀬市市史、厚木航空隊50周年、Naval Avaiation News、 Foundation(Spring 1994)

2011年7月4日 更新
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