アメリカ陸軍厚木航空基地 (1945-1950)

【1.アメリカ陸軍第5空軍】  マッカーサーが到着後厚木基地には沖縄から第43戦闘グループ(P−38)3飛行隊、第3爆撃グループの4飛行隊(A−26,P−61)  第3緊急救難飛行隊(B−17G)が進駐。  これらの部隊は1946年までの約1年間厚木に駐留したところで厚木基地拡張案が浮上した。  その工事は滑走路の西側にもう1本滑走路を作成しアメリカ陸軍の日本本土での最大飛行場を作る計画だった。  1946年(昭和21年)11月14日付けでマッカーサー司令部より第8軍に対し工事施工命令が発令され、用地の接収(綾瀬町深谷)、工事業者選定、測量を開始。  翌年1月1日より工事開始予定だったが、九州の鹿屋飛行場の滑走路工事を優先するために一時中断となった。  延期された工事は3月下旬に再開の予定であったが その後、厚木基地の地盤が弱くB29の離発着には向かないとの理由(うわさ)で中止となったが、そこにはGHQのさまざまな思惑があったようだ。

【2.冷戦の始まり】
 厚木の飛行部隊は沖縄や千歳へ移動し、厚木に駐留する飛行部隊は無くなった。  アメリカ陸軍との日本側の事務局「終戦連絡中央事務局厚木出張所」は移動する部隊があると近くの鶴巻温泉で送別会を開いている。  1946年(昭和21年)3月にはアメリカの駐留兵力は8000名から1500名に減少している。  そんな中、駐留部隊は航空部隊から陸軍部隊が増加するようになった。  ソ連との関係(冷戦)が微妙になるにつれ、厚木基地では防諜関係部隊が活発になりゲートの出入りが非常に厳重になった。  この防諜関係司令部は(S2)厚木基地近くの旧高座海軍工廠の宿舎にあり、終戦連絡中央事務所も疑惑を持たれ突然の事務所捜索もあった。  S2は「終戦連絡中央事務局」に対し数ヶ月間疑惑を持ち続けていたようで双方の話合いの結果、疑惑は解けた。  その後、伊豆などに旅行などして感情の融和を図っているなど、日本的な接待をしたようだ。

その後、厚木は冷戦の最前線基地となっていく。
【3.基地の変化】  航空部隊が無くなった厚木は1946年(昭和26年)7月19日に横浜税関事務局長より、日本における一般外国人の唯一の出入国空港に決定したとの連絡があった。  それに伴いターミナル近くに税関事務所兼旅具検査場を8月13日に進駐軍によって整備することとなった。  厚木はアメリカから来る陸軍新兵の教育訓練を5〜8週間行い、終了後各地に移動させるための訓練センターとなった。  特に大量の黒人兵訓練を行ったが、訓練を卒業できたのは半数と訓練部隊の司令官はそのレベルの低さに嘆いた。  1946年度の黒人兵訓練は約2000名、翌年には約9000名が予定されたがその後横浜で行うこととなった。 


【駐留部隊の推移】
◆7月頃には主要部隊が移動する中、基地内では海軍が移動してくるのではないかとの噂が流れていたのは興味深い。
◆第5空軍は厚木を去るが滑走路増設工事完了後には戻る予定と鶴巻温泉で「送別会」を行い綾瀬・渋谷・大和・海老名各町長も出席。


◆1946年10月末には主要部隊はいなくなった。
◆厚木基地は第5空軍直轄下にあり、第8軍司令官は Replacement Training Center長の位置づけで両者の権力争いが発生。
そこで終戦連絡事務局は10月25日鶴巻温泉にて第5空軍関係者を招き第8軍の歓迎会を行った。


  • 1946年12月
    • 第5空軍
      • 空軍部隊の移動は終了
    • 第8軍
      • 610th. Q. M. Port Company → 609th. Port Company(黒人部隊)
      • Red Cross
      • P.X.
◆1946年12月1日に黒人訓練部隊の卒業式が行われ、約半数が不合格となり1947年春には中止かと司令官が心配。
◆基地司令官である第5空軍のMAJ. Sikesは千歳に転勤、空軍関係者は将兵25名となる。
 第5空軍は第8軍の訓練が終了し滑走路工事が終了すれば厚木に戻る予定だった。


  • 1947年1月
    • 第8軍
      • 3446th Truck Company(黒人部隊)1月7日横浜に移動
      • 白人部隊が到着 A - G Company 厚木で8週間の訓練
◆基地司令官は第5空軍のLT, Hurtmanとなる、このため第8軍の司令官(位が上)と基地主権争いが絶えない。

もう1本の滑走路増設工事は1947年1月から3月に伸び、その後中止となり、第5空軍は厚木に戻ることはなく 滑走路の補修も行われず、
アメリカ陸軍第8軍の訓練センターとキャンプ座間の資材倉庫とし基地機能は縮小していった。
【4.朝鮮戦争勃発】  滑走路増設が中止され、戻るはずの第5空軍も戻らず厚木基地はキャンプ座間の資材置場になり休眠状態となった。  日本の敗戦により38度線で米ソにより分割統治されていた朝鮮半島で1950年(昭和25年)6月25日突然北朝鮮軍が攻め込んできた。  朝鮮戦争の勃発である。 この突然の進行により6月27日に国連安保理が開かれ日本占領中のアメリカ、イギリスなどの軍隊を中心に国連軍が編成された。

【5.アメリカ将兵の朝鮮派兵基地】  休眠状態となっていた厚木基地は米軍将兵の朝鮮への派兵基地となり再び活気を取り戻すことになる。  前線に向かう兵士たちは基地の外へ出てバーなどで持ち金を使い果たした、そのため基地に近い相模鉄道の相模大野駅、大和駅周辺は米兵相手のバーが乱立した。  当時の公務員の初任給が6500円であったが、バーなどで米兵が使ったお金は1日600万円以上だったと言われる。  そして思わぬところで大和町の”ペンキ屋”が引っ張りだことなった。   木造の日本屋奥をペンキで塗り派手な看板を付けて”にわかバー”を作ったのだ。 そこは米兵のすった煙草の不始末ですぐ火事となり、また米兵の放火もあり大和は”火事”で有名となった。
【6.アメリカ海軍厚木航空基地誕生】  日本国内に本格的な航空基地を持っていなかったアメリカ海軍は休眠中の厚木基地に目を付けた。  アメリカ海軍太平洋司令部は厚木を海軍航空基地として使用するために10月にアメリカ海軍工兵部隊が施設の修復に着手、12月1日アメリカ海軍厚木航空基地(Naval Air Station Atsugi)が開隊した。  翌年1月から哨戒飛行隊のローテーションと、空母航空グループの支援が始まり、12月には開隊1周年を記念し基地を一般公開している。




2011年7月17日 更新