当BBSへのご投稿でおなじみの“まさやん”さんらのグループ『マルヨンの会』の展示会が2月2日(日)12時より2月8日(土)まで
有楽町・交通会館B1「シルバーサロンA」にて開催されます。
写真、絵画、動画、モデル、航空コレクションと、賑やかな展覧会。
いつの日か個展や合同展示会などの開催をお考えの方、たいへん参考になると思われます。
私は初日(日)の午後と7日(金)の午後に拝見させていただきます。
掲載、ありがとうございます。
今回の内容は多くの展示会に見られる、特別な飛行機とか、懐かしい写真、写真的に優れているとかではなく、サブタイトルにあるように『ボクらのヒコーキ反省記』であり、4人各自の足跡をたどるもの。
ですから飛行機が好きになったきっかけの品物とか、初めて雑誌に掲載された写真というように、それぞれが心に残っている出来事を、写真や品物を通して振り返ろうというものです。
そして終活を兼ねて、それらの品々を販売する目的もあります。
『亭主のお宝、妻にとってはただのゴミ』と言われるコレクションがゴミとして捨てられる前に、次の世代に渡れば少なくても10年は残る、と考えたのです。
私が死んだあとは、間違いなく紙ゴミとなる三軍記念で配られたパンフと、東亜国内航空以降の歴代ゲロ袋。
しかし、欲しい人にとってはプライスレス?


会場での展覧会は二次表現としての一つの手段であって、“終活”とはまた違うように思いますがいかがでしょう。
写真やモデルの展覧会を演劇にたとえれば個展は一人芝居。今回の“まさやん”さんら四人よる展覧会は“ミュージカル”ではないかと
勝手にたとえてみました。
映画やビデオは、作品としてフィルムなりVTRとして残り再び鑑賞することはできますが演劇は終われば全て消えてなくなるもの。
残るは感動と思い出だけ!。これがまたイイんですね。
「ボクらのヒコーキ半世紀」楽しみにしています。


航空情報1960年5月号掲載作品
米軍機への思いを膨らましてくれた1枚がこのENOMOTOさんの作品。
このシーンを頭に描き1962年夏、初めて行った箱根ヶ崎側ランウェイエンドは上の写真のような光景ではありませんでした。
地面の様子も年によって変化することを確認できるのは標準レンズでの写真があるからですね。


“吊りモノ”の多さや尾部の形態がマニア心をふるわせ、日本で見られたRB−29やRB−50などよりも惹かれます。
調べてみると横田の421ARSのKB−50JがRB−29Mと交代して任に就いたのは1958年3月。ちょうど日本にマニアらしき人物がエンドに出現しはじめた頃ですね。
↓は、航空情報1957年8月号に出ていた記事ですが、つながりから考察すると改造された新機が初めて横田へ配備されたことになります。
その後横田で見られたのはたった6年間。同じ給油機であるGV−1(KC−130F)は、初来日した1962年から58年経っても第一線で活躍してます。KB−50の活動期間はずいぶん短かったんだなあ、と、つくづく思う次第です。


フライパスから着陸するシーンは見たことがないので、エンドで離陸を狙わない限りこうした写真は撮れなかったでしょうね。雲もいいなあ。
1962年7月8日 撮影:WATANABEさん


望遠ですと(135mmでも)地上はうつらないから、標準レンズで撮ったことが史料としても貴重な写真になっています。


レストア機と見紛うほど現代的なショット。B−29系のスタイリングは決してイイとは言い難いのですが、この写真に関しては違いますね。
これ以上のベストアングルがあれば見てみたいものです。スバラシイ!


光の当たり方が絶妙です。


1963年ですと、横田ドライブインはまだ開店してませんね。ラブホもまだ温泉マーク(逆さクラゲ)のネオンを妖しく光らせていた
「旅館」「旅荘」の時代ですから、人通りの多い国道筋には建ってなかったでしょう。
↓は1962年8月29日にWATANABEさんが撮影したKB−50の離陸。J47全開と言ったところでしょうか。
私たちがまだ、エンドの片隅でウロウロしていたころ、このような素晴らしい写真を撮っていたとは・・・。
WATANABEさんもNarisawaさんも、さすが“東京飛行機寫眞倶楽部”(TSPC)の会員ですね。


R4360×12基が奏でる“大演奏”。こんなシーンに出くわしたら頭の中は真っ白になってしまいますね。
それにしましても撮影のWATANABEさんは、冒険家の一面があったのだなあ、と、写真みて思いました。
この場所で写真を撮るには相当勇気が必要ですから。1962.5.22


ところで、no789、WATANABEさんはご性格通り、慎重ですよ。多分、画面手前下のボヤッとした所は、腰の高さのお茶の木で、そこに腰を屈めて撮ってるんだと思います。


bV90の手前の“ボケ”は確かにお茶の木の可能性が高いですね。
ビスタビジョンのサイズに広げてカットしましたが、35ミリサイズの原版では下はそのまま、上は不自然に空が広がっています。
やはり、お茶の木に隠れながらドキドキしながら撮ったのでしょう。
↓1962年8月、Yoshinagaさんが板付で撮ったKB−50のアップ。
明らかに関東とは空の透明度が違いますね。この写真を当時の航空情報の写真コンテストに応募されたら、
入賞していたのではないでしょうか。


こうした議論が掲載されるのも、飛行機写真マニア世界の黎明期であったことが分かります。
しかしながら当時の初心者マニアにとっては、ブローニーフィルムで12枚しか撮れない二眼レフより、35mm一眼のほうがイイに決まってるわけで、よくぞ記事にしたと思っていました。
ところが写真を撮り始めてから数年経つと三軍記念日などで6×6判にて撮影された写真と、35mmの写真とは情報量の差が歴然!。
何人かの写友はマミヤCクラスをサブカメラとして持つようになります。その流れはカタチを変え1969年に発売されたペンタックス67に
継続されていきました。


写真表現の基本と言われる遠近法を巧みにとりいれるだけでなく、尾部の給油プローブの収納口やドローグバスケットの形状を、
6×6判ならではのシャープさでガッチリ表現しています。


まいりました。


晴天時とはまた一味違いますね。
背景が墨絵のような無風状態。日本の夏特有の蒸し暑さが画面から感じられイイ写真です。


<Hamanoさんコメント>
50数年前からKB−50Jのネガはあったのですが、どこで撮ったものか全く分かりませんでした。
昨年12月に友人と伊丹でのB−50の話をしているとき、急に思い出したのです。
カメラに興味が無かった1963年頃、伊丹へはよくバイクで(CB−72)出かけていました。このとき、たまたま友人がキャノンFXという一眼レフを貸してくれたのでRW14に行き、そこで撮ったのがこのKB−50Jです。
写真にそれほど興味がないときに撮ったのでヒドイ写真ですが、先日スキャンしたところ何とか写真になったので送ります。そのときはまだ横田や厚木、岩国など聞いたこともなかったのですが2年後には飛行機写真にハマり、飛行場通いが始まりました。
今回のスレッドではじめて気が付いたのは、KB−50は全身ベアメタルではなく下面は薄いグレーに塗られていたんですね。
Hamanoさんのこの写真からもそれが見てとれます。(赤塚)




植田正治風納得です
流石にヒコーキだけに留まらず、
コマーシャルフォト分野の作風に敏感ですね
>赤塚さん
ホンマヤ〜
KB−50Jの下面の明度を上げてみたら
後部胴体の標識マーク下部や前部レインボウの中間付近から翼にかけて斜めのラインと主翼前縁を避けてグレー塗装がありますね
1962年7月19日の西砂川にて


>のらひこさん
“三軍記念日の群像”は私の興味あるところで、写真は時代を映す鏡であることが分かる一例ですね。
793の1961年板付三軍と、↓799の1958年横田三軍と比べてみるとどこか違う。
それは3年という歳月の差なのか、多摩市民と福岡市民の違いなのか?。興味は尽きません。
横田三軍記念日を切りとった写真見て、瞬間的に50年代をイメージしたことを勝手に申します。
日米安保・Yankee・ご婦人・マスオとワカメ・ベビーカー・うちのママは世界一・シェリーフェブレー・・・。




ですよねえ〜、ロウアングルなので空をバックに浮き上がり人物の動作をはっきりさせていますよね。
それぞれの人がまるでポーズをとって静止しているかのよう、そして図ったかのようにグループになっている!
大傑作です m(_ _)m




カンガルーマークが付けられているところから、すでにKB−50Jとしてのミッションを行っていたようですね。 撮影:Nomuraさん




我々世代マニアにはもっとも馴染み深い塗装。尾翼のマークはライン状のレインボーに変更されていますが、
いつ頃から変わったのかは不明です。




1964年をもってこの個性溢れるタンカーも横田で見られなくなりましたが、当時マニア間でその姿を惜しむ声は聞かなかった。
「KC−135よりKB−50を真面目に撮っておけば良かったナア」と思っても時すでに遅し!。“老兵”はいつの間にか消え去ったのです。


航空情報 1964年3月号 「私のアルバムから」より
KB−50Jが横田から姿を消したのが1964年頃ですので、撮ろうと思えば撮れないことはなかったのですが、その頃から「厚木通い」が始まり横田へ余り行かなくなったからでしょうね。
今じっくりKB−50Jの写真をみると、じつに味わい深くJ47を装備しているせいか、B−50やWD−50にない魅力があり、もう少し横田へ行っておけば良かったと後悔してます。
4発レシプロに補助ジェットエンジン付き。マニアの懐古趣味にはピッタリの機体ではありませんか。


下はMoriさんが1961年2月に36エンドの樫の木から標準レンズで撮影したKB−50の着陸ですが、WATANABEさんの写真とは対照的に、こちらは真冬の肌寒さが画面から出ています。双方ともモノクロ写真ならではのもので、カラーですと訴える力が弱くなるように思いますが、いかがなものでしょう。




1964年の三軍記念日で空中給油演技飛行をするKB-50です。
私も「何であんなに大きな垂直尾翼が必要なんだろう」と少年時代から思っていましたが、そのことを説明できる友人は周りにおりません。どなたかお分かりでしたらご教授願います。またB−32も異常なくらい大きいですよね。
↓はIchijohさんが63年11月23日に撮影された横田“36”でのKB−50J。
道路は舗装されてなかったので1日36に居ると、髪に櫛が通らないほど埃だらけになりました。雨が降れば当然ぬかるみとなるわけですから、撮影時は足元に注意したものです。そんな思い出を蘇らせてくれたのがこの写真。シャシン心のあるIchijohさんの見事なショットに脱帽。


ご説明の36での着陸高度について分かりやすいのがKumakiさんが撮られたこの写真。
45mmレンズでも、ここまで下がらなければ全体像を撮れなかったわけです。1962.2.1 撮影:Kumakiさん
それにしても音を頼りに木立からヌッと出てくるKB−50を尾部まで入れて真横で撮るには相当な集中力がないと難しい。
「先輩マニアはやはりスゴかったなあ」とつくづく思うのであります。




KB−50の横田での公開飛行は1958年5月17日の三軍記念日が初めて。
↓はNomuraさんが撮られた当日の写真ですが、B−66というのが古きよき50年代を感じさせてくれます。F−100は板付に配備されたばかりで、こちらは最新鋭機。マニアは少なかったと思いますが、居あわせた人はさぞかし興奮したでしょうね。
第一エンジンが停止してますが、これは演技ではないでしょう。
R4300がよほど複雑だったのか、フェザリングでの写真はたいへん多いですね。


●1958年 初公開
●1959年 雨天ですべての飛行演技は中止
●1960年 嘉手納からF−100、RF101、那覇からF−102の訓練飛行が目前展開。伝説の三軍記念日として知られてますが、
KB−50の飛行はあったのかどうか?写真は見たことないです
●1961年 私はカメラを持たず(持てず)に横田へ行ってますが、KB−50が飛んでいた記憶がなく、写真も見たことないのでこの年も不明。
●1962年 シルバーメタルにベースペイント最後の年。ひと目でいいから見たかったですね。↓5月20日 撮影:Gabariさん
●1963年 手元に写真がないので航空情報誌より転載
●1964年 758の徳永さんの写真が最後となりました。


RF−101の都合がつかなかったのか、1機ですと少々さみしいですね。(どこから撮ったのか?いいショット)
私はこの日どうしても抜けられない用があり横田へ行けませんでした。F−89スコーピオンが公開されるのは分かっていたので本当に残念だった。


スコーピオンが展示された1963年の横田の三軍記念日には私も行っていますが、KB-50の飛行演技の写真はなぜか残っていません。飛行高度が高くて短いレンズではどうしようもなくて眺めていただけだったのでしょうか?
撮影者は慌てて何とかカメラに納めたのが画面が傾斜していることから分かりますね。
航空情報には1964年3月7日撮影と記されていました。


KB−50も運用末期ですから整備士も少なくなったり、機体の古さも相まって、こうした小さな事故が多発していたのでしょうね。
今のCH−53は大丈夫かいな?と、つい考えてしまいます。


ですかね。
B−50の整備士は一機当たり何人いたんでしょう。エンジン1基につき3人として、その他艤装を考えたら、1機当たり20人?でもそのぐらい居ないと中2日のミッションなんかできませんよね。もっと少ない人員でこなせたんでしょうかね。でも横田に10機以上いた時がありましたから、整備士だけで200人以上!!福生のおねーさん達はアメ車ぐらい買えたのかしら。
徳永さん、横田へのB−50の配備は最高何機ぐらいだったんですかね?




貴重な俯瞰写真ですね。横田のKB-50飛行隊は、"Flying Rainbow Squadron"と呼ばれていた421ARSで、約20機のKB-50が所属していたようです。写真はまだベトナム戦争が本格化する前で、嘉手納やタクリ、あるいは南ベトナムのタンソンニュットに分遣隊を送る前でほぼ全数がそろっていたと思います。
421ARSはPACAFの空中給油機として活躍していましたが、1964年8月13日に南ベトナムで墜落事故を起こし、これがきっかけとなって急速にKC-135に置き換えられたと言われています。
話は変わってかつB-50ではありませんが、アラスカ州アイエルソン空軍基地の”沼の貴婦人”と呼ばれているWB-29A 44-62214です。この機体は第二次世界大戦終了後にボーイング、レントン工場で製造されたもので、1948年7月にRB-29Aとなり3年後にはWB-29Aとなってアイエルソンの58SRWSに配属されます。その後1954年9月16日までアル‐シャンや北極圏の戦略偵察を行った後に1954年退役します。その機体を基地内の池に運んで洋上不時着陸脱出の訓練機としましたが、冬の雪解け水で機体が水没、わずか半年で放棄されることになってしまいました。
Google Mapで”The lady of the Lake”と検索すればその場所が表示されます。
なぜでしょうね?
フライングレインボウの機首ストライプはきれいでしたね
モノクロしかありませんが
1962年7月26日の箱根ヶ崎
ありふれた写真ですがKB−50J着陸ショット




TAKADAさんによりますと当日KB−50は4回航過したそうです。三軍記念日での航空ショーは12時前後ぐらいの時間帯に行われることが多かったので、のらひこさん、村越さんはスコーピオンだけを撮りに、午後から行ったのかも知れませんね。
↓TAKADAさん撮影


↓は同日の単機フライト。R4360とJ47をフルスロットルでローパス。戦闘機系にない迫力があります。このあとRW18エンドのあたりでひねって急上昇でもしたのでしょうか。


769の正解者に「飛行機ゆかた」を贈呈する件ですが、残念ながらご用意できません(笑)
おっしゃっているのは、↓このことですね。1965年8月に酣燈社から発売され41機種のシルエットを染めたマニア垂涎の浴衣。
55年前の物価と、現在の物価を単純比較すると約10倍ですから、仕立て料込み1万5千円ぐらい。ちょっとお高い。
まあ、持っていたとしても、これ着て外出するには勇気がいるようです。アロハにすれば今でも結構売れるのではないでしょうか。私は買います。


真っ黒で何も写っていないと思っていたネガを見返したところ、ありました!
小っちゃくKB-50が(笑) この他にも少し見上げる角度でもっとちっちゃなKB-50が写っていたのでTAKADAさんが仰るように何度か航過していたみたいですね
オソマツ!
PS. 私のネガにはスコーピオンが一枚も写っていませんでした!?


それにしてもスコーピオンを撮らずに帰ったんですか?もしかしたらスコーピオンの周りには怖いオタクおじさんが沢山居たんで近づけなかったのかも知れませんね。


4月から始まりましたBBSU「私のアルバムから」も明日から新年を迎えます。
皆さまのご投稿もあって見応えのあるサイトになりましたが、引き続き2020年もよろしくお願いいたします。
BBSU開始時に当サイトのテーマについて記しましたが、あらためて申し上げます。
タイトルの「私のアルバムから」にありますように、本BBSは1950年代から60年代にかけて航空情報誌上において発表された
読者の写真をベースに構成されております。
私たち世代のマニアが少年期から青年期にかかる頃、父親や親戚などからカメラ(主に45mm)を借りてランウェイ・エンドで写真を
撮れるようになったとき、すでに先輩方は一眼レフと望遠レンズ(主に135mm)で撮った素晴らしい写真が、航空情報誌上に毎月のように載っていました。
当時、航空情報は日本の航空誌として権威ある専門誌で、飛行機写真を撮り始めた者にとっては航空情報に自分の写真が掲載されることを目標の
一つにしてましたが、如何せん知識と技術が未熟であり先達に学ぶことが多かったのです。
言わば、このコーナーはTSPCの先輩方をはじめ、すでに飛行場で活躍されていた先達の方々の写真と、私たちの「想い出写真」を
鑑賞しながら往時を語ろうというのがテーマです。
その頃に写された飛行機は“超”が付くほど珍しかったり、航空史的に重要である機体も多々ありますが、ここでは機体の詳しい背景などは
専門書やウェブでご覧いただくとして、アップされた写真を見ながら“時代の空気感”のようなものを思い出し“あの頃”を懐かしんでいただければ幸いです。
B−47は本日で終了し、次回は1月6日からB−50系の写真とともに語り合いたいと思います。皆さま方のコメントをお待ちしています。
航空情報 1959年12月号
↓はその原版の写真ですが、おそらくペンタックスS2とコムラー135mmで撮られたものと思われます。50年代で望遠レンズを使い基地のエンドで撮影していた人はごく一部であり、当時のマニアさんたちは羨望の眼差しをもってTODAさんに接していたことでしょう。


ここでは詳しくは説明しませんが、B-47研究家にとりましては、たいへん有りがたい写真でしょうね。


眼が超リアルでありながら、口は簡略化されています。このシュールな表現は意図したものなのか、あとから口の部分を描き込んだのか?
1962.1.4 撮影:Moriさん




たしかにノーズアートの眼はインドネシア風に見えなくもないですね。
想像ですが、この写真が撮影された当時“白っパナ”のRB−47Hは出現したばかりで、それを見て絵心のある兵隊が描いたのでしょうね。これが黒いレドームですと何かおかしい。
先輩T.Maさんの話によりますと、RB−47Hのノーズアートにはフランケン・シュタインと、わんぱくデニスがあったらしいです。“歌は世につれ”ではないですけど、描かれたものを見てみたいですね。懐かしすぎて・・・。http://timvp.com/tv/dennisthemenace/
↓は1962年4月24日,WATANABEさん撮影のRB−47Hですが、珍しく部隊章のようなものが描かれています。ご存知の方おられましたらご教授ください。


モノクロ世界にNarisawa氏カラー画像はAkatsuka氏仰るように、急に現実に引き戻されたような何か変な感じを覚えます
1967年4月6日木曜日、まだ春休みだったのか、それとも高3一学期が始まっていたのか? ネガを見ると午後からの撮影なので始業式後に行ったのかも?
Rwy18離陸後すぐに戻ってきたようで、離陸の黒煙もくもくも撮っていなかったのでFCFだったのかな
この日のネガには空自のマルヨンも写っていました あの頃は時々飛来していましたね




スマホでもいじっていたんじゃないですか?
まだ無いか^_^;




アグネス・ラムは1967年ではまだ11才なのでデビュー前でしょう。時代的にはジェーン・マンスフィールドあたりかな。
その頃よく見ていたカメラ月刊誌に掲載されていた数多の作品の中でよく見たタイトルが「若い二人」とか「老人」。
そして、必ずあったのが「無題」でした。
↓はMoriさんが横田の36で撮影されたRB−47ですが、もし、私がタイトルを付けることが許されるなら「無題」です。




確か痛ましい事故で亡くなられたのですよね。チョットググってみたらNo.727〜を撮った直後の67年6月でした。ですので赤塚氏おっしゃるのが当たっているかも(笑)
アグネス・ラム、「激写」本がまだ本棚の片隅にあったような?




氷点下の真冬であろうと、30度を越す真夏であろうと、鼻水をすすり、迸る汗をぬぐいながらランウェイ・エンドに過ごした日々。
ラジオも無い、クルマも無い・・・だから面白かった。
便利になるとその分失うものがある。なんて、当時は分かるはずもありません。
↓はNAKASATOさんが1959年3月に撮影されたRB−47Hですが、早春とは言え冬の名残りが画面一杯に溢れて出ています。
50年代の西砂川を写し撮った素晴らしい作品ですね。
偶然にもNo736の機体と同じでした。


おそらく、配備されてすぐの写真ではないでしょうか。米軍の兵士も珍しいものを見ているような感じがいたします。
NAKASATOさんも初物をもう少し寄って撮りたかったのでしょうが、目の前に兵士がいたため、離れた場所から身を潜めてキャッチした・・・。
これは私の想像です。
左の竹林は1967年頃まであったそうですが、記憶にありません。


今のうちに手持ちを出しておきます
1964年7月31日の横田18エンドのトウモロコシ畑
RBとWBが2機降りてきた夏の日、暑かった
1964年7月31日のRB−47H/53−4291






たしかに暑そうなショットですね。
でも、1日で“RB”と“WB”が同時に撮れるなんて“幸せ者”だと思いますよ。
>のらひこさん
撮影ポイントの解説、ありがとうございます。
今は300mmが標準レンズの時代、どこからでも苦もなく撮れますが、楽になるとエピソードが少なくなりますね。果たしてどちらがいいのでしょう。
↓は、古くからの関西の友人、R.Nakajima君が1966年3月16日に36エンドで撮影したRB−47H。レンズに当たってシャープなピントを出していましたが、撮影の“腕”は私より良かったような気がします。AGC版「アメリカ空軍機写真集」に解説されたT.Maさんの文をそのまま載せますが、その通りだと思いました。
『大阪のマニア中島氏が、ペンタックスとタクマー135mmで撮影したRB−47Hの見事な離陸ショット。横田初訪問でこの写真をモノにしたというから、幸運と手腕の見事な融合としか言いようがない』(以下略)


当時、航空情報のアートページは世界の雑誌の中でもレベルが高いと言われており(編集部談)、一読者の写真が航空情報に掲載されるのは、日本のマニアの写真技術の高さが世界から認められたようなものでした。


AGC版「私のアルバムから」下巻にも掲載させていただきましたが、本書の印刷では、この写真の良さがでませんでした。
南中時の横田36で撮影したモノクロ写真の仕上げは非常に難しく、陰影をつけようと“押す”と機体全体が黒くつぶれ、
それを避けようとするとフラットな締まりのない写真になってしまう。当時モノクロプリントを焼いた経験のある人はお分かりだと思います。
そこはT.Maさん一流の仕上げにより、単なる着陸写真ではなく芸術作品にまでに昇華させた技術はさすがですね。本当に素晴らしい。




そのラストページの写真を飾ったのがWATANABEさんのRB−47Hの離陸写真でした。

