#4720でM.WADAさんからご紹介された夕暮れ寸前のKUショットです。
この時はASA(ISO)25での撮影は無理な光線状態だったと思われましが、何というか勢いというか精神集中ができたのかもしれません。
おかげで貴重なカラー写真が残せたと思っています。
200mmで撮影(トリミングしてあります)。


安倍元首相が7月8日に暗殺され、早くも8日が過ぎました。
7月14日,夜,岸田総理が9月に,日本武道館に於いて安倍元総理の国葬を行う方針を表明しました。
「国葬」は吉田茂・元総理大臣に続いて二人目となり、
彼の死が如何に大きなものであったか、又、偉大な日本の指導者であったかの証だと思います。
自分も、これ程「他人」に対して長く涙した事は無く「国葬」とした判断は妥当だと思いました。
安倍氏暗殺の経緯に関しては現在、色々な憶測が飛んでいますが、
時間の経過と共に警察の手で真実が明らかになる事を願うばかりです。
まあ、いつまでも嘆き悲しんでいても、しょうがないので、CTBBSの投稿に戻る事に致します。
>MACH3さん
AJ-201の「流し撮り」、決まっていますね、流石です!
「一見」すると、普通のタキシングショットに見えてしまうほど”完璧”に止まっていますね。
ランウェイ上のショットも合わせ「トリミング」したとは判らないような画像で「K-II」の凄さを
見せつけてくれたMACH3さん”渾身”のショットに魅入ってしまいました。
それでは先ず最初、HAMANOさんが1973年7月8日(水曜日)NAF NAHAで撮影した
VMA-311”TOMCATS"のA-4E/151096,WL-18からです。
此の撮影場所は米軍のビーチから撮ったとの事ですが、
自分は其処迄行き着くのに長い距離、海岸線を歩くのが嫌で一度も行ったことがありませんでしたが、
写真を見ると、絶好の撮影ポイントだっとことが分かり、行くべきだったと後悔しています。
A-4E/151096はUE-05→UE-20→UE-05とVC-5に居続け、1992年3月に用途廃止となっています。


RF-4B/153109はRM-22(1972)→RM-604(1973〜1974)→RM-614(1975)→VMFP-3/RF-17(1977),
1987年10月19日、フィリピンで墜落。乗員2名は救助されています。


燃料補給後、直ちに離陸。
日曜日の早朝で、強い南風が吹き荒れる中、突然RMのEA-6AとRF-4Bが各3機づつ、計6機がL/Dするという
「虚をつかれる」飛来で全機撮り逃がすという失態を演じてしまい気が動転。
家からニッピ山へ向かう時間的余裕も無く19の離陸側へ移動するので精いっぱいという状況でした。
由って、この日の細かい離着陸時間等のトラフィックデータは記入する時間的余裕が無く無記載。
その精神的プレッシャーと強風に身体を持っていかれRM-600の斜め前ショットは「ブレブレ」。
加えて、強風の影響で離陸高度は高目で、良かったのはスッキリと晴れ渡った「青空」だけ。
この日、エンドに来たマニアは11人。
彼等がRMを何処で何機撮れたかは定かでありませんが、天気だけは「最高」でした。
RF-4B/153101の履歴。
VMCJ-1/RM-00(1971)→RM-15(1971)→RM-600(1973〜1976)→VMFP-3/RF-10(1976)→RF-16(1981),
→RF-15(1981)→1981年5月22日、ネバダ州ELYでアクロバット飛行中に墜落。クルー2名は死亡。


同機は燃料補給後、岩国へ向けT/O.
この日、エンドに居たのは西村さんと荒川兄弟の3人だけでした。
RF-4B/153093の履歴。
RM-15(1971〜1972)→RM-611(1972)→RM-15(1973)→RM-611(1974〜975)→RM-601(1975),
→NF-611(1976)"NF"レターのRF-4Bは自分は撮れず仕舞いで終わりましたが、
自分が最も撮りたかったVMCJ-1機が、この”NF-611”でしたので悔いが残っています。
→RF-12(1982)→1989年8月9日、AMARC入り。2008年11月19日、HVF WEST社でスクラップ。


昨日に引き続きまして、RM/RF-4Bのショットをお届けいたします。
1974年7月8日(月曜日)15時15分,ローカルフライトに飛び立ったRM-605は16時,R/W-19へL/D.


此方のショットはNo-4737でご紹介したショットの前のコマで「初登場」。
そしてNo-4737はフィルムスキャナーからのデジタル化の為、良く分らなかった細部でしたが、
今回、一眼レフカメラによるデジタイズで解読できなかったインテーク・ベーンに、
「斜め書き」されていた文字も鮮明に見ることが可能になりました。
その文字は”M E GLARY"と書かれており、色々資料を分析して調べたところ、
私見ではありますが、ある一つの推論を導いてみました。
先ず、頭の"M"と"E"ですが、"ME"=私、ではなく、"M"も"E"も、誰かの名前の頭文字なのではないか?
その下に続く"GLARY"="輝く"と合わせると、その人物を称える文言と推察したのです。
その人物は、軍の「慣例」からして「故人」と見るのが正しいのではと推理しました。
そして行き着いた人物は、1973年10月22日、VMCJ-1,DET-101のEA-6A/156980,RM-611の事故でした。
この事故でVMCJ-1所属のクルー2名が亡くなり、その氏名は1stLT DAVID MOODYと1stLT JOT EVE.
二人の名前の頭文字はMOODYの"M"、EVEは"E", RM-605に書かれていた文字と一致します。
つまり、あの文字は,この二人を偲び、称えた文字だったのではと自分は思うのですが
皆さんは、どのようにお考えでしょうか?




1974年7月21日(日曜日)早朝、3機のRM/RF-4Bと共に厚木へ飛来して来たのが3機のEA-6Aでした。
高い高度+逆捻り+一瞬、太陽が雲の陰に入るというトリプルパンチを食らったRM-614の上り。
EA-6A/156984の履歴。
RM-4(1973)→RM-614(1973〜1974)→RM-534→624(1975)→VMAQ-2/CY-13(1977)→VAQ-209/AF-702(1986),
→VAQ-33/GD-102として2002年10月、インディアナ州SIOUX CITY APに留め置き。
2008年になってSIOUX CITYにあるWANER MUSEUM OF AVIATION & TRANSPORTATIONに引き取られる。


残るRM-613は着陸後、マイナートラブルが発生し離陸できず居残りとなりハンガーへ。
此処まで手帳を確認しながら気づいたのは、
この早朝のRM機の飛来はCVA-41からのフライインであった事でした。
CVA-41 USS MIDWAYは7月22日(月曜日)の朝、横須賀へ帰港していました。
気が付くのが遅れ失礼いたしました。
RM-613は修理に手間取り離陸出来たのは着陸から3日後の7月24日(水曜日)9時でした。


1975年4月1日(火曜日)、EA-6A/156989号機は塗装を一新して厚木に現れました。
7時25分、前日、横須賀を出港した空母ミッドウェイを目指しフライオフしたRM-612は
再び厚木に戻って来ました。
写真は着陸前に前方の着陸機がR/W上に居た為、ウェーブ・オフしたところを捉えたショットです。
それにしても「地味」な部隊の筆頭株だったVMCJ-1が部隊解散直前になって見せてくれた此の塗装は
我々マニアにとって大きなプレゼントとなり撮影にも”気合”が入りました。
EA-6A/156989の履歴。
RM-9(1970)→RM-2(1970〜1973)→RM-612(1973〜1975)→RM-532→622(1975),
1975年4月29日〜30日にかけてCVA-43 USS CORALSEAから発艦したRM-612は
サイゴン陥落に伴う米軍関係者の退去支援として深夜、北ベトナム軍への戦闘ミッションを実行。
これがRM-612の最後の実戦フライトとなりました。
→CY-622(1976〜1977)→VAQ-309/ND-612(1980〜Feb'89).


1974年5月30日(木曜日)16時5分,
厚木R/W-19へVMA(AW)-533のA-6A/155679,ED-1が着陸しニッピ入りしました。
それから23日後の7月22日(土曜日)、
日飛の整備工場から曳き出されたED-1は駐機場で11時40分から12時にかけてエンジンテストを実施。
この日は14時40分までR/W-01運用だったので、午後の定位置「御神木の丘」からED-1の動きを注視。
すると、12時46分、ACLが点滅し始めた為、急いで南のカドへと自転車を走らせました。
しかし、いくら待ってもED-1はタキシーアウトせず、ACLも消えてしまいました。
仕方なく、エンドに帰ろうとした其の時、ED-1が音も無く動き始めたのです!
慌てて眼鏡で確認すると牽引車に曳かれ、此方に向かってくるではありませんか!!
「エンジンテスト」だっ。 そして撮れたのがご覧のショットという訳です。
この日の外来機はRG-404が1機撮れただけでしたので
例えエンジンテストでも、海兵隊機が撮れた事は、とても「有難い」事でした。
その”美味しい思い”が出来たマニアはゲンちゃん,一朗太,ポチさん,長久保さん,若様の5人でした。
それにしても、一枚の写真を撮るまでに、これ程の労力と情熱を必要とする
「外撮り軍用機写真」というのは、かなり専門的で稀有な分野の写真と言えるのではないでしょうか?
又、その苦労が写真からは全く伝わってこない、という事でも
努力が報われない、アピール出来ない最たるものが「ヒコーキ写真」と言えましょう。


15時56分、テストフライトに向けてR/W-19を離陸。17時44分、着陸しています。
写真は「お墓」前の誘導路”DW"をタキシングしてテストフライトに向かうED-1です。


17時36分、RG-426が厚木R/W-19へ着陸するところをマニア63人と撮影。
この日はCVW-5機のフライインがあり11機がL/D.


張り付けられていたので、後日、再び撮影しようと考えていましたが、
翌日の7時15分に嘉手納に向け離陸し撮り逃がしてしまいました。


1979年7月23日(月曜日)シャークティースのOS/F-4Eが降りたとエンドで聞き,
時間的に間に合わないかもしれませんでしたが厚木の仲間と横田へ向かう事にしました。
すると、幸運な事にOSのF-4Eは未だ離陸準備中で、ギリギリ間に合い
タキシングショットを撮る事が出来たのです。
"BEN-31"FLIGHTは13時5分、OSANに向け横田R/W-36を離陸して行きました。


12時30分、横田に到着。
クルーの昼食中に給油と点検を済ませたファントム達は
横田R/W-18を離陸し彼らの最終目的地であるMISAWA ABへと向かいました。
この6機のファントムはハワイANG、199thTFS所属のF-4C達でした。
写真は1機だけ存在したグレー塗装のF-4C/64-0785,”IWA"。
"IWA"(アイバ)とはハワイの言葉で「カメハメハ5世」のこと。


インテーク・ベーンには"MIG KILLER"を示す赤いスターマークが描かれていました。
これは1967年6月5日に、555thTFSのMAJ R.M.PASCOEとCAPT N.E.WELLSが北ベトナム上空の空中戦で
MIG-17を撃墜した事に由来したものでした。
"ALAE ULA"(アラエ・ウラ)とはハワイ語で「夜明けの陽光」の意味。
又、此の時、トランスパックして来たハワイANGのF-4がANGファントムの初来日ともなっています。


1977年6月27日(月曜日)、HAMANOさんが嘉手納で撮影したVMFA-232のF-4J/155783,WT-00.
F-4J/155783の履歴。
WT-01(1976)→WT-00(1977)→VMFA-333/DN-110(1981)→F-4S→VF-201/AF-101(198x)→VF-202/AFxxx,
1986年12月10日、テキサス州NAS DALLASからAMARC入り。
2008年10月3日、アリゾナ州HVF WEST社でスクラップ処理。


1975年6月7日(土曜日)12時35分,嘉手納R/W-23R離陸に向けタキシングするVMA(AW)-533のA-6A/157024,ED-2.
パイロットネームはMAJ A.R.RIDEOUT.
A-6A/157024の履歴。
VA-52/NH-507(1972)→ED-2(1973)→ED-00(1974〜1975)→ED-2(1975)→A-6E→VA-115/NF-515(1991〜1994),
→1994年、バージニア州NAS NORFOLKで用途廃止。
2003年8月、バージニア州RICHMONDのDEFENCE SUPPLY CENTERで展示。


パイロットネームはLCDR M.K.WONG.
A-6A/155711の履歴。
VA-52/NH-501(1971)→VA-145/NE-501(1972〜1973)→NE-503(1974)→NF-505(1974〜1977)→A-6E,
→VA-155/AA-502(1987〜1988)→VA-55/AK-555(1989)→VA-115/NF-502(1990〜1993),
→1993年NF-511としてワシントン州NAS WHIDBEY ISLANDからAMARC入り。
2014年10月15日、HVF WEST社でスクラップ処理。


11時丁度、L/D. パイロットネームはLT LARY MAXWELL.
A-6A/155718の履歴。
VA-52/NH-510(1970〜1971)→VA-145/NE-500(1972)→NF-511(1973〜1977)→A-6E→VMA(AW)-224/WK-505(1980),
VA-55/AK-505(1985〜1986)→VA-35/AJ-504(1989)→AJ-501(1990〜1991)→1994年4月、NAS NORFOIKで用廃。


1973年6月8日(金曜日)厚木R/W-19へVAW-111のE-1B/148124,NE-015がCVA-61よりフライイン。
他に飛来機は無く、空母所属のC-1Aが降りただけという、寂しいものでした。
翌6月9日,横須賀へ空母レインジャーが入港.3日後の6月12日に出港と慌ただしく去って行きました。
その空母を追いかけて、南のカドを回ってNE-015が1機だけの「フライオフ」。
但し、この話は手帳からの抜粋で、実際には自分はNE-015は撮り逃がしており、
今回アップした写真は西村さんから頂いたスライドを使ったものでした。
この頃の自分は「天気」が悪いと撮りに行かないという行動を繰り返していた為、「撮り逃がし」が多発。
随分と、勿体ない事をしてしまっていました。


撮影日は1972年6月24日(土曜日)。
この日、3機のEKA-3B/NG-614/615/616が厚木からフライオフし、マニア4人が撮影していました。


1977年6月13日(月曜日)12時5分、厚木R/W-19を離陸するPR-31.
エンジンスタートから離陸迄、何と2時間もかかるスローさで、呆れてしまいました。
手前の”小山”は、当時基地内で行われていた建設工事で出た残土や瓦礫等を
ゴルフ場周辺の窪地に運び込んで出来た”盛り土”の山でしたが、
ブルトーザーで整地され、アッという間に消えて行きました。


ニッピ山の樹上から撮影。
此の時期、VQ-1ではEC-121とEP-3の2本柱で任務に就いており、新・旧の偵察機が一日で撮れる日もあり、
常連マニア、特に長久保さん、ゲンちゃん、若様は時間の許す限り連日のように姿を現していました。
皆が特に狙っていたのが新・旧機を一つの画面に写し込む事でしたが、
其のタイミング、確率は非常に低く自分は実現せずに終わっています。


1972年7月8日(土曜),此の時期,自分は単位取得に忙しく思うように撮影が出来ませんでしたが、
無理をして時間を作り、空母コーラルシーが入港中の横須賀へ駆けつけました。
ところが、不運な事にその日は「抜き打ちの艦内査察」が行われており部外者は”乗船禁止”。
仕方なく、桟橋から撮影する事にしましたが、それも認められず退散となりました。
結局、数枚撮影しただけで終わり、それ以降、時間が取れずCVA-43は7月12日(水曜日)に
横須賀を出港し本国へ帰ってしまいました。
厚木にはC-1Aさえ降りず、入港後に突然3機のEKA-3B/NL-610/611/612がキュービーから飛来し、
7月13日(木曜日)7時にフライオフしたため、L/D、T/O共に撮れずでしたので、
横須賀で撮った数枚のショットだけという情けなさでした。
写真は、乗船できず”放心状態”で撮ったCVA-43の「SAYONARA」ショット。


このF-4B/153019は1972年3月6日、北ベトナム上空の空中戦でMig-17を撃墜した"MIG KILLER"でした。
又、同機は1966年12月20日にVF-213/NH-110号機として北ベトナム上空でAn-2を撃墜した”猛者”。


2機のA-6A/VMA(AW)-224,NL-51x、51xをTARCAP中、迎撃に現れた北ベトナム軍のMIG-17と空中戦となりました。
パイロットのLCDR JERRY "DEVIL"HOUSTONはRIOのLT KEVIN MOOREと共にMIG-17の300フィート後方から
トリガーを押し"AIM-9G"を発射。サイドワインダーは敵機の後部に命中。
機体後部が吹き飛び爆発炎上しながら地上に落下。
その間に、ウイングマンのLCDR CHUCK SCHROEDERとRIOのLT RICK WEBBはA-6Aの護衛とNL-201を
UHFを介してサポートしました。


今回は数少ないCVW-8(AJ)機のカラーショットを紹介します。
今から52年前の夏はCVW-8機(AJ)が連日、連夜、厚木上空を乱舞していました。
然し、天気には恵まれず、晴れたのは僅かで、悔しい思いをさせられ通し。
スカッと晴れたのは「フライ・オフ」当日の7月24日(金曜日)だけでしたが、
カラーフィルムを忘れて持って来ず、モノクロのTRI-Xだけという為体。
最後まで「ツイていない」CVW-8機との関りでした。
1970年7月21日(火曜日)ローカルフライトを終え厚木R/W-19へL/DするVA-172のA-4C/147673,AJ-304.
A-4C/147673は1975年11月13日、MASDC入り。1983年1月10日、マレーシアへFMSで供与されています。


このA-4C/148536は一年後の1971年4月6日に早くもリタイアしMASDC入り。
1983年8月22日、アリゾナ州GILA BENDのGOLDWATER RANGEでターゲットとして使用とする一方、
A-4Sに改造されシンガポールAF#620となって運用されたという二つの記載があります。


CVW-8(AJ)のF-8H,A-4C/Eも15機前後存在し、10月にかけて整備が終えた機体から順に
テストフライトを行い、戦闘中の空母シャングリラへと戻って行きました。
その中の1機が、此方のA-4E/151178,AJ-515.撮影は8月20日(木曜日)。
テストフライトを行い、厚木R/W19へ戻って来たところのL/Dショットです。
A-4E/151178号機はVC-5/UE-14だった1987年11月15日、エンジンから発火し墜落しています。




1975年6月8日(日曜日)午後、厚木を離陸した2機のVA-212”RAMPANT RAIDERS"のA-4Fは
15時25分、嘉手納R/W-23RへL/D。 厚木ではMACH3さんが「お墓」からNP-307/314のタキシングを撮影。
NP-314として運用されたA-4F/154970号機は1993年8月26日、AMARC入り。
1997年4月、アルゼンチン海軍へスペア取り機用として売却されました。


NP-307と同様、15時18分、嘉手納R/W-23RへL/D.
厚木で撮影していたMACH3さんのショットも気になりますが、
デジタイズ、終わっていますかね?
A-4F/155034号機は1994年3月29日、AMARC入り時、実機のMSN#は13806=154990でしたが
154990号機は1973年にイスラエル空軍となっているので、これ以上の究明は出来ない状態です。


嘉手納へ飛来したVA-55"WAR HORSES"のA-4F/154194,NP-514.
先頭を切って降りて来たNP-500は嘉手納での撮影が不慣れで頭上を通過され撮影は出来ませんでした。
A-4F/154194は1983年6月22日、VMA-133/ME-03機としてウィスコンシン州
HARTWOOD BOMBING & GUNNERY RANGEに於いて訓練中に墜落し機体は失われました。




15時55分、NP-500はNP-514と共に嘉手納R/W-23Rを離陸し空母に帰って行きました。
A-4F/154173号機は1997年4月A-4ARに改造されFAA #C-937としてアルゼンチン空軍機となっています。
近年、SAN LUIS郡、JUSTO DARACTのSANTA ROMANA INTERFORCES REGIONAL MUSEUMで保管中。


今回は"NAS AGANA"のベースフライト機のご紹介と致しました。
1974年6月13日(木曜日)10時15分、厚木R/W-19へ降りるNAS AGANAのC-121J/131659.




8時6分、NAS AGANAへ向け厚木R/W-01を離陸するHU-16D/137906。
"古参機"ゆえ、すべてがスローモーでした。
この日は日曜日で13人のマニアがエンドに集合。




機首に何も書いていない「通常」の塗装なので、
敢て、マーキングのあるテール・ショットをご紹介致します。
""GATEWAY TO THE ORIENT"と書かれたNAS AGANAのエンブレムのデザインが目を惹きました。


1974年6月26日(水曜日)11時14分、ニッピからテストフライトに上がったNG-201は
11時52分、厚木R/W-19へ降りて来ました。
この日エンドに来たマニアは24人。




11時2分,L/D時にドラッグシュートが外れ,機首下の「RAT」を展開し、アレスティングL/Dするところを
マニア48人と撮影。


15時9分、厚木に戻りT/Gを実施したところでドラッグシュートが半開きで展開してしまい、
念のためアレスティング・フックを下ろしての着陸となりました。
今迄の経験上、ドラッグシュートを付けたファントムの着陸は
「間延び」したショットになってしまうのが分かっていたので、敢て、ほぼ正面から」狙う事にしました。


現在の若いマニアの方達には信じられないでしょうが、
当時は「人間」が手動で「ピント」を合わせながら撮っていた時代だったのです。


1977年6月1日(水曜日)9時20分、厚木R/W-01を運用中でしたが"CHECKER-01"FLIGHTは
R/W-19ディパーチャーをリクエスト。
南のカド回りを期待していたのに「あて」が外れてしまいガッカリ。
然も、悪い事は重なるもので”高~い”離陸でWでガッカリ。
4機のWP/A-4M狙いで厚木に来ていた25人のマニアはUE/A-4の離陸からタキシングへと撮影状況が変わり
慌てて「お墓」へ走った筈なので、そのショットを見て観たいものです。
自分の救いは、悪天候故、「編隊離陸」をしてくれた事位でしたが、天気が悪過ぎました。
因みに、UE-04だったA-4E/151162号機は1989年7月19日、マニラから50マイル北西、
NAS SUBIC BAYから西方の山中でフライト・トレーニング中に墜落し、
搭乗していたLT RICHARD AMBRUSTER(28歳)は死亡し機体は失われました。


翌17日は厚木AMDで一日かけて整備点検が行われました。
そして訪れた7月18日(土曜日)は稀に見る"CHECKER TAILS"デイとなり
”EVENT-THREE"、つまり、一日で3フライトするという空前絶後の"ラッキーデイ"となったのです!
惜しむらくは、一日を通して「曇り」基調で、時折、晴れ間が現れる程度で
撮影意欲を大分、削がれはしたものの、記憶に残る一日となりました。
因みに、横田でもWD/WP/VKの海兵隊機がT/O、PNのF-4が2機L/Dと盛況でしたが、
人間、身体は一つ、どうしようもありませんでした。
写真は厚木R/W-01離陸に向け「南のカド」を回るVC-5のTA-4J/155115,UE-03.
パイロットネームはCDR BILL ROBB.


パイロットネームはCDR JUAN PARON.
小さな事ですが主翼下に装着されている増槽タンクに小さく”VS-37”と書かれていました。
これは多分、キュービーでVS-37”SAWBUCKS"のS-3A/NE-7xxが帰国に際し
置いて行った「置き土産」ではないかと思われます。


昨日の続きです。
1981年7月18日(土曜日)南のカド回りをせず、R/W-01エンドまでタキシーバックしたUE-06.
スカイホークは機体が小さく500oでトリミングしてもこの程度の大きさが限度。








昨日に引き続きましてVC-5の話題です。
1981年7月18日(土曜日)"EVENT-Two"で14時30分,T/Oした(UE)-07は,15時33分、厚木R/W-19へL/D.
直前まで編隊を組んでいたUE-10はウエーブ・オフしてしまい"編隊着陸"は実現しませんでした。
A-4E/152001は1992年3月運用不可の裁定を受け退役。






A-4E/150056号機は1984年6月8日、ACM中にNAS CUBI POINT付近の海上に墜落。
パイロットは救助されましたが、機体は海中へ没し失われています。


厚木に飛来したH&MS-15”ANGELS"のTA-4F/153489,YV-03.
機体のマーキングが荒っぽく消されているのは、ベトナム戦が激化し
隊員の疲労が激しい中での部隊移動の為で、如何に戦いが激烈かを象徴する”消し跡”でした。
TA-4F/153489は7月11日付で岩国のH&MS-12(WA)移動となり、厚木飛来時、外見的には”YV"ですが、
実際には既にH&MS-12(WA)の所属機であったと思われます。
TA-4F/153489の履歴。
VMT-103/SC-xx(1967)→H&MS-12/WA-xx(1967〜1969)→H&MS-11/TM-7(1969〜1970)→YV-03(1971〜1972),
→WA-01(1972〜1974)→WA-01(1975〜1977)→WA-167(1978〜1981)→H&MS-24/EW-xx(1981〜1989),
VF-126/NJ-615(1991〜1992)→1992年4月21日、AMARC入り。
2009年5月29日の時点でもAMARCに在籍はしていますが、機体はバラバラで無残です。


毎日、暑い日が続き夜遅くなっても気温が下がらず熟睡できません。
1970年代は、こんなに暑くなかったような気がします。
皆さん、体調を崩さないように気をつけてお過ごし下さい。
HAMANさんが1970年6月に伊丹で撮影した5th AFのVC-118B.
大阪万博関連での飛来だそうです。
VC-118A/53-3297号機は1975年、MASDC入りし、その後ALASKA AIRLINESで運用され
1991年にアフリカへ移動。1994年7月,V-5 WACのレジで運用中,ナミビアでの着陸時に墜落。


トラッカーが角を回ること自体「稀」な事ですが、このようなシーンは予想外で驚きました。
US-2A/133306号機は1983年4月9日時点でAMARCに在籍中ですが、
エンジンや主翼が外され,ほぼ「廃物処理」一歩手前の状態でした。


此の時期、WBのブロンコ(WB-00/01/12/13/14)が厚木をホームベースとしてCAMP FUJIで行われていた
米海兵隊の演習に参加し連日のようにフライトを繰り返していましたが、
厚木もNE/NG/NL/NP等の艦載機がチョコチョコ飛来していたので、
中々、CAMP FUJIまで足を延ばすのは躊躇われる状況となっていました。
写真は、珍しく南のカドまで来てくれた"SEAWORTHY-00".
P/CはSGT FAGSTAFF.
同機は後にモロッコ空軍機として運用されました。


翌6月1日(水曜日)9時40分〜10時10分にかけて三沢に向け順次T/Oして行きました。
写真は先頭を切って上がって来たA-4M/159483,WP-00,"MOTOR-01".
P/Cの名前はSSGT T.D.HALLADAY.
A-4M/159483は1994年3月9日,AMARC入り。
1995年11月15日、アルゼンチン空軍にA-4R,FAA/C-933として配属。
2015年9月29日、事故により損傷。


此の「ヒネリ」はどう見ても030°ではないですね。でも、マニアとしては勿論「大歓迎」ですが。
P/CはSGT J.P.LIPA.
この日エンドに来たマニアは23人、その内,数名はCAMP ZAMAで行われたNF-726のT/Gを撮りに
車を飛ばし座間へと向かっています。


1974年7月29日(月曜日),4機のVMA-211/A-4E,CF-3,12,15,16が厚木R/W-19から岩国へ向けT/O.
CF-3のパイロットネームはMAJ T.C.BYALL,"BRETT".
自分が一度に4機のスカイホークが滑走路上に勢揃いしたのを見たのは此の時の一度だけ。
もしや、と思い樹上撮影を敢行して撮ったのが此のショットです。
当然ながら、画像からは全く撮影時の”恐怖感”など伝わって来ませんが
木のテッペンで足を木に絡めつけ、両手はカメラとレンズを操作し、
強風に揺られながらの撮影は、端から見ると”正気の沙汰”ではなかったはずで、
よく、こんな事をして撮っていたもんだとスライドを見ながら思った次第です。
因みに、A-4E/149983号機は1976年12月10日、VC-2/JE-07号機時にノースカロライナ州、
沿岸上空でF-4Jファントムが誤って発射したサイドワインダーミサイルにより撃墜され
パイロットは緊急脱出し、辛くも難を逃れました。


それに先立ち、5機のWL/A-4E,WL-2/11/15/16/17が7月24日(水曜日)に日飛入りして来ました。
その先頭を切って12時10分、厚木R/W-01へ降りて来たのがA-4E/152081,WL-17でしたが、
「肝心な時に限って曇る」という、厚木のジンクス通り、この日もヘイジーな曇り空の中、
仲間7人とL/Dショットを撮影。パイロットネームはLT DAVE RUNNER.
A-4E/152081はWL-17の後、1975〜1980年にVMA-131/QG-04として活動中、
1981年1月28日、アリゾナ州MCAS YUMAから離陸中、エンジンから発火、炎上しながら墜落。


撮影日は1977年7月4日(月曜日)、アメリカ独立記念日当日の撮影です。
此の年、横田は7月2日〜4日の3日間公開され、厚木、横須賀、座間、CAMP FUJIは其々2日間公開。
同じ日に5カ所同時に公開されると、お手上げで、横田を選択した自分は他の基地はアウトでした。
ところで、とても細かい話ですがWP-00の機首には小さく「赤いカンガルー」マークが僅かに残っていました。
オーストラリア遠征時にでも描かれたものでしょうかね?
パイロットネームはMAG-12のCO, COL E.B.BUSSELL.


パイロットネームはCDR E.D.McKELLAR JR. CVW-8のCAGです。
A-4E/150001の履歴。
VC-5/UE-xx(1970〜1975)→VA-127/NJ-xxx(1975)→VMA-131/QG-xx(1975~1979)→QG-11(1980〜1988),
→VF-43/AD-xx(1988〜1990)→1990年10月25日、AMARC入り。
2020年12月2日、HVF WEST社でスクラップ。


17人のクルーと共に11時1分、厚木R/W-19へ着陸。
同機はカリフォルニア州NAS POINT MUGUを出発しハワイ→ミッドウェイ島→グアム島を経由して
厚木に到着したものでした。
ところが、運の悪い事にR/W-19へ着陸寸前に「機体」だけ陰ってしまいました。
本国出発から、連日、追いかけていたのに残念な結果に終わったPG-9の到着で、
手前に写る「樹木」に陽が当たっているのが、何ともショックな写真。
P-3A/152178号機は1984年4月5日、MASDC入り。
最後はアリゾナ州HVF WEST社でスクラップ処理されています。


"CJ-095"を捉えたショットです。
同機は14時40分、嘉手納にL/Dしています。
尚、P-3A/151375号機は、後にTP-3Aに改造され運用後、1995年5月16日、AMARC入り。
、


1973年8月17日(金曜日)厚木R/W-19へ着陸するVA-164”GHOST RIDERS"のA-4F/154193,NP-411.
パイロットネームはLT STEVE GLIBBER.
この日はNP-616(EKA-3B)がT/O,VA-55のA-4F/NP-511がL/Dし、常連マニア9人と撮影。
A-4F/154193の履歴。
VMA-134/MF-xx(1975〜1978)→MF-102(1979)→H&MS-46(1979)→VF-43/AD-0xx(1984〜1991),
→AD-21(1992〜1994)→1994年4月7日、AMARC入り。
2004年12月9日、HVF WEST社でスクラップ。


A-4F/154971の履歴。
NP-413(1972〜1975)→VMA-142/MB-xx(1976〜1979)→MB-11(1980)→MB-xx(1981〜1988),
VC-12/JY-xx(1988)→VFC-12/AD-07(1988)→AD-7(1990)→1991年6月27日、フロリダ州NAS KEY WESTで
離陸の最中、エンジン故障が発生し墜落。


パイロットネームはLT RAX BARBER / CW-5 RAN PROCTOR.
空母艦載機として厚木を訪れたTA-4FはNP-416号機が唯一でした。
その貴重なTA-4Fを撮影出来たのは常連マニア9人。
然し、これまでに発表された写真は「離陸ショット」ばかりで、
「お墓」で撮った「タキシングショット」は見たことが有りません。
振り返れば、「厚木」と分かるように「タキシングショット」を撮るべきだったのでは?
と、今は思ったりしても「過去」は取り返しがつく筈もなく、
この”一発勝負”が「ヒコーキ写真」の怖い所ですね。
TA-4F/154622のNP-416以降の動き。
VMAT0102/SC-xx(1979)→SC-32(1980)→SC-xx(1981〜1987)→VMA-322/QR-xx(1987〜1991),
1991年7月14日、マサチューセッツ州NAS SOUTH WEYMOUTHをT/OしたQR-xxは
CAPE COD BAYへ墜落。パイロットは漁船に救助されています。


11時25分、着陸。常連マニア11人が撮影。
実はUE-02のフライトはUE-03と一緒に行う予定でしたが、UE-03は故障でフライトをキャンセル。
その為、UE-02は単機でのフライトを余儀なくされました。


1977年8月31日(水曜日)5時27分〜9時34分にかけてCVW-15(NL)機のフライインがありました。
虚をつかれた形の厚木飛来で最初のA-6は撮り逃がしてしまい、
最後のVA-22/A-7E、4機を、辛うじて撮影することが出来ました。
当然、早朝の時間帯ですから、マニアは自分一人だけ、
後から来た13人のマニアはエプロンを見て溜息を吐いていました。
然しこの日はCVW-15機だけではなく4機のWE/A-4Mも厚木に飛来しマニアを喜ばせました。
厚木R/W-01でローアプローチを1回実施した後、11時32分、L/Dして来たA-4M/160043,WE-2,"DIGMAN-04".
P/Cの名前はSGT JOHNNY SUMLIN.
A-4M/160043号機は1992年8月14日、AMARC入り。
1995年12月4日、A-4AR,FAA/C-931としてアルゼンチン空軍、GRUPO-5に所属し運用されました。


A-4M/159778号機は1989年6月16日、AMARC入り。
1995年9月20日、A-4AR,FAA/C-913としてアルゼンチン空軍で運用。


この2機のスカイホークは仲間と「デニーズ」でランチを食べている最中にL/Dし「撮り逃がし」。
此の時期、昼食を仲間と大和の「デニーズ」で摂るのが恒常化していた為、
結構な数の外来機を「撮り逃がし」ていました。
その内の1機、WE-1が14時43分、厚木R/W-19を離陸するショットです。
P/Cの名前はSGT SOLOMON WRIGHT.
A-4M/160044号機は1982年10月15日、VMA-211/CF-xx機としてLT DAVID T.JONESが操縦中、
アリゾナ州PRESCOTTの西37マイルで、突然エンジン故障を起こし、爆発。
LT DAVIDは緊急脱出を試み成功。救助されましたが、機体は失われてしまいました。




1975年8月15日(金曜日)終戦から30回を迎えたこの日、
横田のマニアから毎週末、岩国からクロスカントリーで横田を訪れる海兵隊機が
編隊着陸していると聞き込み,P-3や輸送機ばかりの厚木を見限り横田へ出かけました。
其の横田で朝から粘り、午後ヤットR/W-36エンドで撮れたのが此のCF/A-4Eの”編着”ショット。
目的が達成出来たので、撮影後、直ぐに厚木へ引き返す事にしました。
厚木に到着し基地内を見渡すと”NFのフライトラインに何もいない"...「空っぽ」!
その横の外来機ラインに駐機しているのはVA-164"GHOST RIDERS"のA-4FとTA-4F!!
”シマッタ〜", やっちまった〜。。。
其の光景を横からニヤニヤ笑いながら見ていた4人の常連マニアが言った言葉は、
"滅多に厚木を離れない和田さんが厚木を離れた時は何かある”
此の”ジンクス”御存じなかった? これ、マニア仲間の常識ですよ〜。
彼等が言ったことは、まんざら嘘ではなく、
この日24機のCVW-5機が厚木をフライオフ。
そしてNP/A-4F,TA-4FがL/Dと"大当たり"の一日だったのでした。


エンジン調整を行ったVMCJ-1のEA-6A/151598,RM-617.
この日はPD3がL/D,RP-31がT/O,NF-312/314がL/Dしただけの「暇」な厚木でしたので、
R/W-19エンドから南のカドに撮影場所を移しRM-617につき合う事にしました。
そして撮影したのが「ハッチさん」から伝授された「秘密の撮影場所」からのショット。
此の場所は現在の仏具店(広栄堂)辺りにあった杉林の中の背の高い杉の木のことでした。
然し、此の杉の木に攀じ登るには相当な筋力と覚悟が必要でした。
何しろ、頭から杉の枯葉(針状)が大量に落ちて来て眼も開けていられない状況の中、
ささくれ立った樹を頂上まで登らなければならないので、怪我だらけになるのです。
頂上に辿り着くまでに気力・体力を使い果たし、
撮影時はヘトヘトになり、シャッターが上手く押せず"精神力"だけが頼りの過酷な撮影でした。
勿論、撮影後はR/W-19エンドに引き返す余力は無く、
家に直行し風呂に飛び込んだのは、言うまでもありません。


RM-617のレーダーコーンには”顔”がラフなタッチで描かれていて
右舷の方に「目鼻」が描かれていました。


1969年7月21日(月曜日)甲南のスリップ(水際の傾斜台)を降りてテストフライトへ向かう
米沿岸警備隊、US CGAS SANGLEYPOINT所属のUH-16E/1314. 撮影はHAMANOさん。


海に浮かぶ飛行艇が撮れる甲南は以前から知っていましたが、
自分にとって1960年代,甲南は厚木から遠く、交通費も出せず「憧れ」のままで終わりました。


HC-7,DET-116(South Korea)からDLG-23 USS HALSEYに搭載され横須賀に入港し、
厚木へ飛来した際のショット。
#72号機の胴体には白文字で"DET 116 NCO CLUB"と書かれていました。
因みに”NCO"とはNON-COMMISSIONED OFFICERS CLUB"の略で「非嘱託士官クラブ」を意味します。


(NS)-300の置かれていた場所はニッピエプロン最南端で、
ハンガー入庫前にローターブレードを外す器具が設置された場所でした。
此の場所は外からは撮影不可能で「マニア泣かせ」の場所。
その為、色々と撮影地点を捜しましたが、辛うじて姿が確認出来たのが此の一地点だけであり、
加えて強烈な「陽炎」でBuNo等は確認出来ずお手上げでした。
このSH-3Aが出庫しテストフライトをした形跡が無く,今現在も「謎」のままです。


後部スライドドアー後方に描かれた「円」の中に
上下3段で"GRAY/SH-2F/THUNDER"と書かれたマーキングが確認できます。


1974年6月19日(水曜日)7時、スペシャルマーキングのPR-7号機にグランドクルーが乗り込みます。
7時16分、ACLが点灯。同32分、4名のクルーが車で到着。
7時42分エンジンスタート。 PR-7は7時56分、厚木R/W-01をミッションに向けT/O.
それから6時間40分後の14時49分、R/W-19へ帰って来ました。
この日は終日、暑い雲が空を覆って太陽は顔を出してくれませんでした。
それを逆手にとって、19午前中の定位置である「ニッピ山」から撮影する事にしました。
勿論、着陸時に地上部を画面に入れる事によって
「厚木」で撮影したと分かる写真が撮りたかったからでした。
その目論見は「半分」成功するという、悔いの残る結果で終わりました
それは、着陸高度がかなり高く「送りショット」で何とか地上部が入った程度。
自分がイメージしたショットとは程遠い出来でした。
それでも”スペシャルマーキング”の威力は絶大で
曇天のR/W-19エンドには常連マニア6人がPR-7にレンズを向け撮影していました。


9時55分、PR-04は非常に低い高度を維持しながら厚木R/W-01を離陸。
此の離陸は自分が見たA-3の離陸で三本の指に入るほどの低い離陸で、胸が高鳴りました。
↑のPR-7と比較しても、離陸なのにPR-04の方が低い事がお判りになると思います。


画面左下に写る芝生の張替え作業中の人が、余りの低さに思わず見上げている様子が分かります。
PR-04は3時間後の12時58分、マニア17人が待ち構えるR/W-01へ着陸。
又、此の時期、PR-04はフライトから帰ると、直ぐにVQ-1ハンガー内に移され
扉を閉め、外から見えないようにしていました。
何故、このように厳しい警備を敷いていたのかは、全く分かりません。


1977年8月30日(火曜日)空母コーラルシーが横須賀を出港。
翌31日、5時27分から9時34分にかけて
CVW-15機がマサカのフライインをした事はNo-4822でお話しました。
今回は其の時に撮影したショットのご紹介です。
7時15分と36分の2回ローアプローチを実施したVA-22のCAG機、NL-300は
最後にGCAに入り8時4分、厚木R/W-01へL/D. パイロット名はCDR BERT TERRY, CVW 15.


嫌な事は重なるもので、撮影可能な射程まで来た途端、日差しが途切れ、俄然撮影意欲は減衰。
お陰でコルセアの垂直尾翼上端が「切れ」てフレームアウト。
然し乍ら、天気の不安定さを除けば、
11時30分〜16時8分にかけて21機のCVW-5機がフライイン。
12時51分〜21時12分にかけて44機のCVW-15機がフライオフと「盛況」な厚木ではありました。


「月」がテーマと外れるのは眼をつぶって頂き「明るい」横田でのNL-300(1979)をアップ致します。
1977年のNL-300とは別の機体であり、空母もコーラルシーからキティーホークに変わっていました。
1979年10月14日(日曜日)9時20分,横田R/W-36離陸に向け南の国有地前の誘導路をタキシングするNL-300.
パイロット名はFRED MEYERS COMCARAIRWING 15.


NL-300はNL-301/307/310と共に9時35分,VFRにより大島を抜け太平洋上のCV-41に向かっています。
又,この日,厚木では鳴かず飛ばずだったNL-720(SH-3G)がフライトを繰り返し、
木更津では基地が一般公開されWF-02/05(AV-8A)が展示後、横田へT/O.
横須賀ではCV-63 USS KITTY HAWKが一般公開。
小松基地では10月15・16両日に開催する”戦競'79"ACMミート参加機の飛来があり、
青天の午前中に空自全飛行隊の特別塗装機が撮影出来たと,後に長久保さんから聞きショックを受けました。


今日も1977年8月に厚木に飛来したVA-22”FIGHTING REDCOCKS"/A-7Eのご紹介です。
8月16日(火曜日)一日中、曇り空で時折、雨が降ったり陽が出たりと生憎の天気でしたが、
CVW-15(NL)機が8機フライトしてくれ、NL狙いでエンドに来たマニア28人は”燃え”ていました。
僚機NL-303と共に"IFR"ではなく"VFR"ON TOP,EVENT-TWOで厚木R/W-01を12時17分,T/OしたNL-301.


晴天下での撮影は出来ないまま時は過ぎ、8月30日、空母コーラルシーは横須賀を出港。
それから二日後の9月1日(木曜日)CVW-15機が厚木からCV-43に向けフライオフ。
その14番目にフライオフして来たのがNL-301でした。
パイロットネームはCDR LEE CARGILL "RED COCK ONE".


この日は朝、曇っていた空が6時から澄み切った空となり、9時36分、R/Wが01から19へチェンジ。
11時36分から始まったフライオフは15時43分まで青空の下で撮影することが出来ました。
惜しかったのは、最後に上がって来たNL-300 FLIGHT/300/312/314の3機は陽が陰った事でした。


No-4770/NL-100の左端に写っていたNL-302のショットです。
パイロットネームはCDR LED GIULIANI."RED COCK 2".
名前からするとイタリア系アメリカ人のようですね。
A-7E/156822は1990年3月22日、AMARC入り.
2009年10月13日、HVF WEST社でスクラップ。


よく見ると、左後方から機銃掃射を受けたと思われる弾痕が二発
被弾しているではありませんか!
これは投稿前のスライドに付着したゴミをクリーンアップしている最中に発見したもので、
危うく、ゴミと間違えて除去するところでした。
1971年〜1972年のベトナム航海でCVW-15は3名のPOW,9名のMIAを出しており、
VA-22からはLT GEOFF SHUMWAYがMIAの一人としてリストアップされています。
A-7E/157444号機は1987年9月15日、AMARC入り。
2005年10月5日、HVF WEST社でスクラップ。


そんな厚木R/W-01の午後,NL-303がアレスティング・ランディングを実施し,マニア5人と撮影。
パイロットネームはLCDR BIG AL MILLER.


A-7E/156821は1986年12月19日、
フロリダ州 NAS CECIL FIERLD からVA-174/AD-414号機としてAMARC入り。
2005年5月9日、ネバダ州 NAS FALLONでRANGE TARGETとして使用されています。


昨日アップしたNL-303の続きです。
1977年8月16日(火曜日)、NL-301と共に厚木R/W-01をトレーニングに向け離陸するNL-303.
この後、No-4850のアレスティングL/Dへと繋がります。


CVW-15機が厚木に滞在した8月10から9月1日の23日間で日差しが出たのは僅か6日間,残りの17日間は雨が降り
フライオフの9月1日を除くとフライトした日に晴れ間が出たのは、たった5日。
1977年8月の夏が如何に”晴れ”のショットを撮るのが難しかったかが,お分かり頂けるかと思います。




1977年8月27日(土曜日)15時37分、NL-412/306と共に厚木に飛来したA-7E/156844,NL-305.
この3機のコルセア達はフィリピンのNAS CUBI POINTを飛び立ち、嘉手納経由で厚木に到着したもの。




A-7E/156844は1981年9月5日、VA-12/AG-406号機として
LT CLINTON LEE NICELYが搭乗し空母アイゼンハウアーに着艦時しようとして失敗。
AG-406は艦から転がり落ちてノルウェイー海に転落してしまいました。
この事故でLT CLINTONは緊急脱出する間もなく機と共に海中に没し、
現在も機と共に海底に眠ったままとなっています。








1977年8月31日(水曜日)、7時15分、NL-314と共に厚木R/W-01上空に現れたNL-312は
ローアプローチの後、GCAに入り、7時36分、T/Gを実施。
そのまま横田に向かいR/W-36でT/G訓練を数回実施した後,再び厚木へ戻り8時7分,L/D.


A-7E/157466号機は1983年4月5日,VA-87/AE-4xxとして運用中,エンジン故障で墜落しています。




A-7E/156811はVA-37/AE-311号機としてバージニア州、NAS OCEANAからAMARC入り。
2005年12月8日、アリゾナ州TUCSONのHVF WEST社でスクラップ。
結局、NL-312/314共に「晴れ」た状態での撮影は出来ずに終わっています。
さて、此処まででVA-22”FIGHTING RED CKCKS"のご紹介は終了し
次回からはVA-94”SHRIKES"/A-7Eのご紹介に移ります。


今日からVA-94”SHRIKES"/A-7Eのご紹介です。
但しNL-400番は以前当BBSでご紹介済みである事と、
別ショットのスライドが未発見な為、今回アップはパス致します。
NL-400のスライドが発見された段階でデジタイズ/RAW現像して
発表しようと考えて居ります。
1977年8月26日(金曜日)9時30分、"NL-400 FLIGHT]”'2として厚木を飛び立ったNL-406は
11時1分、厚木R/W-01に戻りT/G後GCAに入り、11時7分、L/D.




NL-406はNL-400と共に9時丁度、厚木R/W-19を"Maintain VFR on Top"で小田原を経由し甲府エリアの
VFR/低高度訓練エリアへと離陸し、10時55分、R/W-19へ戻りT/GHx2回実施後、L/D.
VA-22機では果たせなかった"ニッピ山"からのショットを曇り空でしたがVA-94機で叶えることが出来ました。


34人のマニアはNL/A-7EとRDのオライオンのT/G撮影に勤しみました。
このように地上部と背景を入れ込んで撮れるところが「ニッピ山」の魅力でしたが、
MP/ガード・ニッピの社員等、周りに注意を払いながらの撮影は、気が抜けず”しんどい”場所でした。




A-7E/158011は1982年VA-37/AC-307として運用後、1991年2月27日、AMARC入り。
2011年10月18日、HVF WEST社でスクラップ。




セカンドショット。
因みに此の日、ニッピの整備工場から曳き出された2機のF-4J/153798/153881(元VF-191/NL-212と203)は
西側CVW-5のフライトラインに牽引されて行きました。
2機ともT/C,MDX等のマーキング類は全て落とされていましたが
F-4J/153798はフェイリス塗装が施されたままで、未だ「撮影価値」は十分に有していました。
但し、153798号機がVF-151/NF-200となった時には惜しい事にフェイリス迷彩塗装は落とされ
「標準塗装」に変わっていました。


A-7E/157500は1984年7月11日,VA-27/NL-401としてカリフォルニア州NAS CHINA LAKEへ向けフライト中、
エンジン故障を起こし墜落。パイロットも死亡しています。
尚、現在、バージニア・エア パワーパークで展示中のA-7E/157500,VA-37/AC-300は”実機”ではなく、
157506番機を157500として塗装したものでしたが、
誤解を招きやすく、間違え易い展示方法で”頂けません”ね。


1977年8月24日(水曜日)13時5分、厚木R/W-01からNL-506と511がローカルフライトへ離陸。
パイロットネームはLT JIM DICKEY.
NL-511/151782はノーマークでしたが,9月11日にVA-115に移籍となりNF-510となっています。


僚機NL-511はマイナートラブルが発生しフライトラインに引き返し、
11時5分、フライトプランをキャンセル。
12時40分、R/W-01へ戻って来たNL-506はT/Gを2回実施し、12時50分、着陸。


斜め前では薄日が差していましたが、真横ではご覧のように曇ってしまい
不本意なL/Dショットとなりました。
このような空模様が8月いっぱい続き、折角、飛来したCVW-15機でしたが、
満足のいく撮影結果は殆んど得られませんでした。


1977年8月30日(火曜日)横須賀から空母コーラルシーが出港。
これに伴い厚木からHC-1,DET-4のSH-3G,全4機/NL-720〜723がフライオフ。
その内NL-723は岩国へ向かったCV-43/C-1Aに代ってCOD役を務め,厚木と空母間を往復。
その後、CVW-15機のフライオフが有ると思いきや、全く動きなし。
8時57分に上がったNL-100は単機、岩国へ向かったきり、厚木に戻って来ず
この日、エンドに集まっていた43人のマニアを落胆させました。
このような状況下、ニッピから岩国へ帰るVMFA-251の/F-4J/153856,DW-6の離陸を撮ろうと
R/W-19午後へ移動、15時35分、"PORKY-06"の離陸を撮り、01エンドに戻りました。
そしてエンドに到着し、駐車スペースを捜していた、その時、突然、1機のA-6がL/D.
車の窓越しに見たイントルーダーは、何とNL-500,CAG機!
駐車場所探しに気を取られ、一瞬、エアバンから耳を外した僅かなミスが原因で、
これがNL-500撮り逃しの顛末です。
その「ケチ」のついたNL-500のフライオフは、ご覧のように高〜いR/W-19の離陸で、
撮影時刻も11時36分と”最悪”。最後まで「縁」の無いNL-500との出会いでした。
因みに”フライオフ”と紹介しましたが6機のA-6と2機のF-4の行き先は岩国で
空母ではありませんでした。
因みにA-6E/159574は1994年4月、バージニア州、NAS NORFOLKで用途廃止。


A-6E/159317は1995年10月20日,VA-165/NG-515としてワシントン州NAS WHIDBEY ISLAND よりAMARC入り。
2000年7月25日、運用不可の裁定を受け退役。2016年4月18日、HVF WEST社でスクラップ。


KA-6D/151823は1990年、CVN-72搭載、VA-95/NH-514として活動後、
1993年3月、カリフォルニア州NAS ALAMEDAに於いて運用不可の裁定を受け退役。


1977年、夏、厚木に飛来したVAW-114機は2機。
そのうちの1機、VAW-114のOIC機/NL-601のご紹介です。
32回目を迎えた1977年8月15日(月曜日)の終戦記念日にフライトしたNL-601.
10時20分、厚木R/W-01を離陸したNL-601は「陸上の空母のような空港」と評された、
青森空港(RJSA)に向かいローアプローチの後、三沢に降りています。










CVW-15機のフライオフから5日後の9月6日(火曜日)になって、修理が完了し
漸くAMDハンガーを出てテストフライトしたのがNL-604でした。
この日は晴れたり曇ったりの変わりやすい天気でしたが、
NL-604のフライト時は背景に良い雲が出て晴れ間だったのがラッキーでした。
12時30分、厚木R/W-19をテストフライトに飛び立つNL-604.
一寸、高目の離陸ですが、背景に良い雲が出ているので、結果オーライ。


その他に当時、東洋大生だったSATOさんとパンダさんは
前日、厚木からCAMP FUJIに行って帰ってこなかったH&MS-36/UH-1N,#06/13狙いで
CAMP FUJIに出かけましたが、成果は不明です。
それより、自分としては晴天下でVAW-114,"HOMEL HOGS"のホークアイが撮れた事のほうが大きかったです。
然し、残念なのはNL-604以外のCVW-15機が晴れて撮れなかった事でした。


E-2B/150532は1980年7月19日、MASDC入り。
1994年11月9日、運用不可の裁定を受け退役。
2002年8月、アリゾナ州 TUCSONのUNITED AERO COPORATION YARD入り。


部隊が前後しますが、遅れて出て来たVF-191/194のF-4Jをご紹介致します。
1977年8月10日(水曜日)16時55分、NL-203と共に厚木R/W-01へフライインするNL-212.
このF-4J/153798は航空機絵画の巨匠として知られるKEITH FERRISの考案によるデザインが採用され、
非常に斬新的なスプリッター迷彩塗装が施され、俗に”フェリス迷彩”と呼ばれました。
この機体が厚木に飛来し、実際に見られるとは思っても居ませんでしたので
非常に感激しながらシャッターを切ったのを覚えています。
但し、飛来時刻が遅く、且、太陽の光も無い状況下での撮影は残念至極でした。
又、NL-212/203は他のCVW-15機のように訓練飛行は行わず、そのままニッピ入りしてしまい、
8月27日、ニッピのハンガーから出て来た時にはフェリス迷彩は健在でしたが
T/CやMdx等のマーキング類は全て消され西側フライトラインにトーイングされて行きました。
その後、NL-212はNF-200に、NL-203はNF-105号機としてCVW-5に移動となっています。
F-4J/153798号機はF-4Sに改造後、VMFA-312/DR-02機として活動中の
1982年10月8日、キュービーポイントを飛び立ったDR-02は故障でフィリピン西側の海に墜落。




厚木で最後に見られた時の姿です。
この日、8時57分、CVW-15機の先頭を切って厚木R/W-01をフライオフして来たNL-100でしたが、
行き先は空母コーラルシーではなく岩国でした。
その後、VF-121/NJへ配属替えとなった153781は、1989年2月7日から8日の夜、
空母コーラルシーとレキシントン間でLT T.E.DEWALDが操縦し、基礎的飛行訓練中、
事故を起こしLT DEWALDは死亡し機体は南部カリフォルニアの海に没しました。


1977年8月25日から27日の3日間、連日ローカルフライトを実施したのがNL-400/406のコンビ。
生憎、3日間とも日差しが射さず写真的には今一つパっとしませんでした。
それでもエンドに来ていた熱心な34人のマニア達はCVW-15機を追い続けました。
A-7E/159976は1989年11月27日、VA-27機としてAMARC入り。
その後、ROYAL THAI NAVY機となり運用後、U-TAPAO ABで廃棄処分されています。


1979年9月3日(月曜日)12時31分、厚木R/W-19から嘉手納に向かったNL-400/A-7E,156836のショット。1977年のNL-400とは別の機体でした。
パイロットネームはCDR FRED MEYERS.




CVW-15機の最後はVQ-1から派遣されていたEA-3B/146451のご紹介です。
1977年8月27日(土曜日)厚木R/W-19へ降りたPR-002はVQ-1ハンガー入りし整備に入りました。
9月6日(火曜日)9時10分、曇天の厚木をテストフライトに飛び立ち、10時40分、L/D.
翌9月7日,13時15分、PR-002は宮古島沖を航行中の空母コーラルシーに向けT/O.
常連マニア6人が撮影。


LT "BEACH BOY" HARRIS / LTJG "FLASH" TRITT / ADJAN "MOTOR MOUTH" FORYS .
PR-002が空母コーラルシー搭載時に行っていたミッションは主に
"PARPRO"( Peacetime Aerial Reconnaissance Program ; 平時航空偵察プログラム)と呼ばれるもので、
主に共産圏潜水艦やミサイルの偵察・監視を主な任務としていました。
又、VQ-1,DET-BRAVOのEA-3BはCV-43 USS CORAL SEAからPR-01/005が8月下旬までミッションを実施。
それを引き継いだのがPR-002でしたが、機体の状態が思わしくなく
VQ-1 DET ATSUGIのハンガー内に居た時間の方がフライトした時間より長く,不本意な結果となっています。
EA-3B/146451は其の後、VQ-2/JQ-001号機として1987年〜1990年にかけて運用され
最後は消火訓練用に供され終わっています。




今迄、卓上型カラーイメージ・スキャナーでスキャンしたスライド・ネガを
全て再デジタイズ化せねばならず、気の遠くなる作業が出現し頭が痛い今日この頃です。
A-7A/152673号機は1977年5月27日、MASDC入り。
1983年10月31日、アリゾナ州 TUCSONのCONSOLIDATED /UAC YARDで改装後、
ポルトガル空軍で運用されているコルセアのスペアーパーツ用に使用されました。
2007年1月、NORTH HOLLYWOOD YARDに一時保管された後、
現在はカリフォルニア州CHINOにあるPLANES OF FAME MUSEUMに在籍しています。


永年探し求めていたVF-211"CHECKMATES"のF-8JとVFP-63のRF-8Gが出てきました。
何と49年ぶりの再会です。
それにしても凄いのはK-IIの保存性の良さと色彩が殆んど変色せず残っていた事です。
国産のリバーサル・フィルムは色が抜け落ち無残な状態でK-IIとの落差を感ぜずにはいられません。
又、以前、MACH3さんとK.AkatsukaさんにNPの"エイト・ジー"のシェブロンの色を「赤」と言ったのですが、
今回出て来た画像でシェブロンが「黒」だったことが判明しました。
これは多分、垂直尾翼の上下に引かれていた赤いラインの色を
シェブロンの色と勘違いして伝えた結果だと思われます。
何れにしても、間違った情報を伝えたことを誠に申し訳なく思い深謝致す次第です。
「すみませんでした」。
1973年8月19日(日曜日)11時15分,厚木R/W-19へ着陸するVF-211"CHECKMATES"のF-8J/149210,NP-103.
パイロットネームはLCDR CURRY LAWLER.
NP-103は翌8月20日,那覇に向けて離陸。そして9月18日、再び厚木に飛来しニッピ入りしています。
F-8J/149210は其の後、VF-194/NM-211(1975〜1976)として活動。
1976年3月11日、MASDC入り。1990年4月25日、再びUS NAVYに復帰。
1990年10月22日、フランス海軍のF-8用スペアーとして利用され、
現在はフランス SAINT PRIESTONの個人収集家がコックピット部分のみ保管しています。


厚木R/W-19へ緊急着陸するVF-211のF-8J/149215,NP-104. パイロットネームはLT CORNA BROWN.
NP-104は8月21日(火曜日)NP-111とともに那覇に向け厚木R/W-19を離陸。
F-8J/149215は1976年5月19日、VF-211/PP-663としてMASDC入り。
1987年11月3日、USAF #PCN FC 032となり運用。
1990年4月25日、US NAVYに戻り,8月9日,フランス海軍のF-8用スペアーとして使用。


常連マニア10人が撮影していました。Mdx"605"を付けていましたが、これでも立派な"OIC"機。
それから6日間、NP-605は不調が響いてか一度もフライトを行わず、
8月19日(日曜日)15時15分、単機、那覇に向け厚木R/W-19を離陸して行きました。
パイロットネームはLCDR R.W.HARRISON,
RF-8G/146858は其の後、NP-601(1975)→PP-665(1976)→NG-612(1976)→NL-611(1980),
PP-644(1982)→MCAS EL TOROでの展示を経てカリフォルニア州 MIRAMARの
FLYING LEATHERNECKS MUSEUM入りとなっています。


本日は永年に亘って航空機写真を撮り続けられ関西を代表する存在である
H.HAMANOさんの作品、4枚をご紹介いたします。
1973年8月13日(月曜日)NAF NAHAで撮影されたVC-5のSH-3G/149722,UE-40.
後方には岩国から移動訓練に那覇を訪れていたVEのファントムがズラリと並んでいます。
又、この日、厚木ではCVW-21(NP)機、7機がフライインし盛況でした。
SH-3G/149722は其の後SH-3H〜UH-3Hと改良され2004年8月31日,
北部アラビア湾で作戦中のDDG-88 USS PREBLEへL/Dアプローチ中,事故が発生し用途廃止。


そう説明されなければ判らないくらいシッカリ撮られており流石!HAMADAさんです。
P-3B/153422号機は其の後、1993年12月15日、AMARC入り。
2005年12月からSOUTH KOREAN NAVY(P-3CK)として運用されています。


空軍機マニアの間でF-5とT-38は意外と人気が高い事で知られている機体ですが、
日本国内で撮影出来るところは嘉手納だけで,"運”も左右し手強い相手でした。


尾翼のラダーに書かれたマーキングは「キュウリ」で"THE PICKLE"と上下に書かれていました。
F-4J/155822は其の後、WT-19→DN-100→F-4Sと経過し1988年8月23日、VMFA-212/WD-xx機として
AMARC入り。2007年5月9日、RANGE TARGETとして使われ終わっています。


1974年8月15日、10時55分、VMCJ-1のRF-4B/153105,RM-603が厚木R/W-01へ着陸するところを、
マニア6人と撮影。又、この日、横須賀へCVA-41が帰港。
VMCJ-1は未だCVA-41にDETは派遣して居らず岩国からの飛来であり、
VMCJ-1によるDET派遣はDET-101が1974年10月18日から12月20日にかけてCVW-5に派遣されました。
因みにRM-603はL/Dの翌日、8月16日、13時55分に岩国へ帰っています。


19時30分、T/Gの後,RM-604は厚木R/W-01へ着陸。同機は岩国から単機での飛来。
こんな時間帯でもゲンちゃん,一朗太,そして西村さんはMdxだけでも確認しようと
暗闇の中,必死で機影を追い続けていました。
翌8月30日(金曜日)9時、RM-604にパイロットが搭乗しエンジンを始動しようとしますが
上手くスタートできず、AMDからメカニックが駆けつけ不具合の解消に取り掛かります。
ところがRM-604の不調は中々解消せず、作業開始から1時間30分が経過した
10時30分、やっとエンジンスタートしたものの推力が上がらない様子でした。
それでもマリンコは根性が違います。
離陸クリアランスを要求し、タキシーアウトとなりました。
その結果生まれたのが、今回アップしましたRM-604による”超低空離陸”でした。
自分が経験したRF-4Bの離陸で、唯一「地上部」が画面に写り込んだ離陸をしたのが,此の時でした。
此の時の離陸で撮影したコマは全部で12コマ。内、ブレやフレームアウトで失敗したコマが1/2の6コマ、
残りの6コマが何とか「見られる」程度のレベルで残りました。
今回は其の内で「見応え」のある前半部分の3コマをご紹介致します。
10時55分、岩国へ向け厚木R/W-01を離陸するRM-604.


RF-4B/153109号機はRMその後、RM-614(1975)→VMFP-3/RF-17(1977)→RF-25(1985〜1987)、
→RF-120(1987)→RF-25(1987)→1987年10月19日、フィリピンのCROW VALLYで墜落。
クルー2名は救助され無事でしたが機体は失われました。


1974年8月6日(火曜日)ニュー・マーキングを施してVMCJ-1のRF-4B/153110,RM-607が厚木に初飛来。
その日の夕方、16時53分、再びCVA-41に向け厚木R/W-19をT/O. 常連マニア5人が撮影。


17時15分、CVA-41へ向けR/W-19をT/O. 此の時,離陸を撮影していたマニアは5人。
こんなに遅い時間のフライオフでしたので、冬場であればアウトでしたが夏場で助かりました。


翌8月9日、11時10分、気温31℃の厚木R/W-19を離陸し岩国へ帰って行きました。


21日に行われたCVW-5機のフライイン後の8月22日(水曜日)11時53分30秒,"SPOOK-90"は厚木R/W-19を
岩国へ向け飛び立って行きました。
RF-4B/157351のRF-00以降。 RF-36(1985〜1990)→1990年8月10日、NADEP NORTH ISLANDで保管の後、
QRF-4Bとなりターゲットとして使用されました。


1974年8月7日(水曜日)15時 ,厚木R/W-19に着陸したF-4J/155818,WT-2は、
翌日の8日、12時、岩国へ向け離陸。
パイロットネームは"STINGER"と"JACKAL"というミッション・コールサインが書かれていました。
それにしても大きくライトターンしてくれたのに「離陸時刻」が悪過ぎました。


此の時撮影していたマニアは10人でしたが、皆で「草野球」をしていて外来機の確認が遅れ、
慌てて撮影した為、見事に”ブレ”てしまいました。
当時の厚木では人数が集まると「草野球」を楽しむのが常で、
先輩後輩の上下関係はありましたが、和気藹々とゲームを楽しんでいた為、
時として、このような失敗も発生しました。
F-4B/152992はMC-5(1976)→EC-02(1982)→F-4N→VF-154/NE-xxxとして
1983年10月13日,NARF NORTH ISLANDで運用不可の裁定を受け退役。


同じく息が弾んでいて”ブレ”たショットとなってしまいました。
F-4B/152983はNG-602(1966〜1967)→VE-12(1974)→F-4N→MG-11(1981),
1983年10月14日,MASDC入り.1992年5月19日,ノースカロライナ州,NAD CHERRY POINTでQF-4Nに改造。
1996年8月2日、ミサイルテストで使用。


同機は1974年7月〜1995年12月までJCABで運用されその後,DIAMOND AIR SERVICEに移籍しています。
航空局へ配備当初はご覧のようなトリカラーの写真映えする塗装でしたが、
後に白とグレー系の大人しい塗装に変わってしまいました。


今回はベースフライト機のご紹介です。
1972年9月27日(水曜日),ニッピ入りの為、厚木R/W-19へ着陸するNAF NAHA所属のUS-2B/136406を、
仲間6人と撮影。 同機は1967年7月21日、事故で損傷しましたが修理により復帰出来ました。


撮影は8月21日(木曜日)11時40分と、やや撮影時間は良くなかったのですが
背景に丹沢山系の山並みが出ていた事で「写真的」には、観られる方ではないでしょうか?
因みに、US-2B/136406は1979年3月2日、厚木に於いて運用不可の裁定を受け退役。
その後、タイ海軍に売却されていますが、以後の消息が不明です。


NASU IWAKUNIのUS-2A/136510が着陸。 この日エンドに来たマニアは6人。
同機は其の後、カナダ、ABBOTSFORDのCONAIR AVIATION Ltdに移籍し、
"FIRECAT"MSN 020,森林火災消火機,# 70として運用。
1985年9月27日、C-GHPUのレジを与えられCS2F-1/MSN 419として生まれ変わりました。
1989年12月4日、レジをF-WEOLからF-ZWVKに変更され1990年6月7日までフランスで活動。
1993年4月、F-ZBFDとなり運用中の1996年8月25日、CORSICA島で墜落、除籍となりました。
こうして調べてみると、US-2A/136510は、従軍中より民間に移行してからの方が
社会貢献度が寧ろ高かった機体で、有意義な時を過ごせた機体でした。


NAF MISAWA所属のC-1A/146039"SUPPORT TO THE FLEET".
このように尾翼に基地のインシグニアを付けたベースフライト機は珍しく、
他にC-1A/146020も存在しましたが、厚木飛来は少なく、撮影には苦労させられました。
C-1A/146039号機は1983年12月28日、三沢に於いて運用不可の裁定を受け退役。


10時45分、厚木へ戻りT/Gを4回実施後、11時4分、L/D.
C-117D/50801の機歴です。
1944年、C-47BとしてUSAAF/43-49363として空軍に配備後、11月15日、US NAVYのVR-3 OLATHEへ移籍.
機名もR4D-6と改称→1946年6月20日、保管状態に置かれる→QUONSET POINT(1946/9/27),
→POINT MUGU(1947/2)→R4D-8/MSN 4336→MCAS YUMA(1961)→C-117Dと改称(1962/9/18),
→H&MS-17/SZ-801(1973/7)→NAF ATSUGI # 801(1979〜1981)→1981年退役後、
岩国BORN YARDに於いて廃棄処分。
C-117D/50801は戦中の誕生から最後まで「軍用機」一筋で37年間、機歴を全うした機体でしたが、
その最後の姿を"NAF ATSUGI"として撮影出来たことは自分としては嬉しく、幸運な事でした。


1975年8月6日(水曜日,8時18分,ニッピ入りのため
厚木R/W-19へ着陸するVMA(AW)-533"HAWKS"のA-6A/155679,ED-1をニッピ山から撮影。




マニアは14人。内、6人は横田からのマニアでした。
A-6A/155679は1988年〜1992年までVA-155機。
その後、1994年10月までNAS WHIDBEY ISLANDのVA-65に所属。
最後はバージニア州NAS NORFOLKで用途廃止。


13時1分,フライト・リーダー,ED-04,”BRAVE-31”と共に厚木R/W-19へL/D.


A-6E /155625は1986年〜1987年にかけてVMA(AW)-533/AC-542→ED-xx(1987),
1987年8月4日、ノースカロライナ州、MCAS CHERRY POINTを離陸中に墜落。


此処に来て、漸く少し温度が下がりホッとしましたね。
暑さには強いと思っていましたが、最近の暑さは躰に堪えていたので助かります。
1974年7月24日(水曜日)6時28分、VQ-1のハンガーからPR-04が曳き出されて来ました。
この朝は、ほぼ無風の”R/W-01 Wind Come”で、少し靄っていました。
そんな中、離陸して来たPR-04はR/Wを離れるやいなや主翼上面が見えるほどの「右捻り」。
写真からは伝わり難いですが、大型艦載機故、かなりの迫力を感じました。




そして9時5分,厚木R/W-01を離陸して来たPR-04はA-3の離陸で3本の指に入るほどの"超低空離陸"。
PR-04に限れば間違いなくNo-1の低い離陸でした。
此の時、撮影したショットは8コマでしたが、今回出て来たのは此の一枚だけ。
他のショットが早く出て来れば良いのですが、いつになる事やら。


同機は10時50分、着陸後、11時30分、再びT/O. 13時40分、L/Dし、それを常連マニア5人が撮影。
この日、CVW-5機が22機も撮影出来て、かなり忙しい日となりました。
自分の撮影願望の一つに
「厚木R/W-19午前中の離陸時に”管制塔”を入れて撮影する」事がありましたが
今回ご紹介した此方のショットが唯一撮影出来ただけで、
結局、これ以降、最後まで”管制塔入り”撮影は叶いませんでした。
EA-3B/146459の履歴。
1960年、US NAVYに配備→VQ-1/PR-4(1964〜1971)→PR-04(1974〜1976)→PR-004(1977〜1983),
→NH-004(1986)→NG-004(1986〜1987)→NL-004(1987)→VQ-2(1987),
1987年5月、カタパルト射出時に損傷を負いNARF ALAMEDAで修理後、任務再開→MASDC入り。
1991年、スクラップ処理され31年間の歴史に幕を降ろしました。


1978年8月22日(火曜日),この日は嘉手納の司令官交代式が行われた為、急遽、那覇へ移動。
ところが那覇はR/W-36運用で瀬長島からの撮影は離陸のみ。
11時30分〜16時迄の間にフライトしたF-104J/DJは合わせて14機でしたが、
何れも離陸高度が高く、加えて終日曇天で撮影の成果は芳しくありませんでした。
その中から編隊離陸して来たショットがコレ。
F-104J/26-8506号機は1983年登録抹消。
知念分屯基地に展示後、廃棄処分となっています。
F-104J/468620号機は1984年8月7日、墜落事故で失われました。


此の時は快晴の撮影日和でした。然も、幸運な事にR/W-18運用で
予てから狙っていた「F-104の編隊着陸+F-104のフライトライン+管制塔入りショット」に挑戦。
最初に降りて来たF-104J/628・624組は着陸高度が高過ぎて「普通」のL/Dショット。
F-104J/46-8628は1986年登録抹消。1993年,207SQ塗装のまま岐阜基地で保存展示。
2004年11月30日、何処かへ移動後、詳細不明。
F-104J/46-8624は1980年、登録抹消後、スクラップ処理され終わっています。


イメージしていたショットには500oでも完璧ではありませんでしたが「一応、成功」。
画面右端には不鮮明ですが「日の丸」が旗めいています。
F-104J/46-8612は1972年厚木AFDにノーマークで展示された機体でした。
1987年,台湾空軍機#4501として3rdWING→427thTFW(1987〜1994)→7thTFS/8thTFS/28thTFS of 3rdWING.
1999年、スクラップ処理され終わっています。
F-104J/3608511号機は1983年、登録抹消。


涼しくなったと思えば,又,暑さがぶり返すし,台風も不穏な動きで気が抜けませんね。
1984年8月15日(水曜日)8時45分、韓国、OSAN ABに向け厚木R/W-19を飛び立ったSF-7は
エンジントラブルで厚木に引き返し、9時7分、緊急着陸。
10時27分、無事修理を終えたP-3C/158217は、再び烏山空軍基地に向けT/O.
この日、CVW-5機、39機がフライオフし、その内14機が厚木に帰って来ました。
それをマニア9人が撮影。
P-3C/158217号機は後にP-3C-IIIRにアップグレード→VP-47/RD-08、
1995年3月25日、オマーンのMASHIRAH APへ着陸進入中複数のエンジンが故障。
空港から5マイルの地点に不時着となりましたがクルー11名は生還。
機体は大破し近くのFUJAIRAH IAPに運び込まれ運用不可の裁定を受け登録抹消。
その後、機体は消火訓練用に使用され終わっています。


CUBI POINT経由でインド洋のNSA DIEGO GARCIAへと向かいました。
P-3C/159509はP-3C-Iへアップグレードされ運用後、1996年8月6日、AMARC入り。
その後、パキスタン海軍のP-3C用スペアーパーツ取りに利用された後、
HVF WEST社でスクラップ処理され終わっています。


同機は16時17分、マニア7人が待ち受ける厚木R/W-19へL/D.
P-3C/161267号機は1981年4月30日に配備後、P-3C II-5→P-3C IIIにアップグレードされ運用後、
2011年10月、登録抹消。


日本海で活動するソ連原潜の追尾ミッションに赴く6空のP-3C/5006,”LUCIFER-06”。
同機は15時16分、ミッションを終え厚木R/W-19へL/D.それをマニア10人が撮影。
因みに"LUCIFER-06"の機首にはリムパック’84に参加した各国海軍のP-3部隊の
インシグニア・ステッカーが数多く貼られていました。
このステッカーが貼られたP-3Cは4機(5004/5006/5008/5011)存在しその内の5011号機が
7月22日(日曜日)に開催された「海上自衛隊、ちびっ子ヤング大会」で展示されています。
これ等、4機のオライオンは7月3日(火曜日),13時33分〜39分にかけてハワイから帰還した
"JAPAN NAVY ATSUGI"FLIGHTのP-3Cに着けられていたものでした。


1979年8月29日(水曜日)18時58分、雨の厚木R/W-01へ”NE-204”がL/D.
VF-21,"FREE LANCERS"のF-4Jでしたがノーマーク機でした。
この機体がフライトリーダーとなってNE-200を伴いローカルフライトしたのが9月3日(月曜日).
ところがノーマーク機故か、撮影した形跡が無く今もBuNoが分からないままとなっています。
写真は9月3日、14時21分に撮影したNE-200の高い離陸で「碧空」だけが目立つショット。


NE-200とNE-204は9月7日(金曜日)8時に横須賀を出港した空母レインジャーを目指し
13時36分、曇り空の厚木R/W-19を離陸、大島沖を航行中のCV-61に向かいました。
因みにF-4J/155740号機はF-4Sにアップグレード後、1991年12月、QF-4Sに改造。
2000年5月25日、運用不可の裁定を受け退役。




特に、午後、遅くなればなるほど光線状態が良くなりフィルムの残数を気にする程でした。
F-4J/155835号機は1985年3月29日、MASDC入り。
2008年8月6日、HVF WEST社でスクラップ。


1972年9月19日(火曜日),ニッピからテストフライトに上がったVF-96のF-4J/155573,NG-111は
T/Gを実施後、15時に厚木R/W-19へ着陸。それをマニア14人が撮影。
同機は9月25日(月曜日)にもテストフライトを行いましたが曇天でしたので
「晴れ」て撮れたのは19日だけでした。
F^4J/155573,その後の動きです。
VF-142/AJ-2xx(1974)→VMFA-212/WD-05(1977)→VF-142/NK-214(1980)→VF^301/ND-112(1981),
→F-4S→VMFA-112/MA-06(1990)→1991年2月、ノースカロライナ州、CHERRY POINTで用途廃止。
→QF-4S→2002年5月7日、用途廃止。


同じ場所で点検が行われ、9月16日もエンジンテストを実施。
そして、漸く9月22日(月曜日)15時10分、厚木R/W-19をテストフライトに飛び立ったVE-3は
16時10分、R/W-19へ一発降り。
その翌日の23日もフライトを行い、9月24日(水曜日),雨の中、岩国へ帰って行きました。
F-4B/153062は其の後、F-4Nへアップグレード→VMFAT-101/SH-41(1977〜1978),
VMFA-531/EC-04(1981)→1981年11月23日、MCAS YUMAよりMASDC入り。
1985年1月22日、USAF,FP-005として運用。同4月23日、ユタ州、HILL AFBでAGDR機。




特別塗装が施されました。
この日,バイセンNF-100は午後もフライト(14:10〜15:05)し,エンドに来た仲間二人は大喜び。
しかし此れは例外中の例外で他のバイセン機同様
バイセンNF-100も滅多にフライトしてくれず,撮影には本当に苦労させられました。
F-4N/151433号機は1977年10月20日、空母ミッドウェイからMASDC入りし、
二日後には運用不可の裁定を受け退役。
1990年4月4日、AMCEP入り後、スクラップ処理され終わっています。


本日は1976年8月,英国,RAF GREENHAM COMMONで開催されたRIAT-1976で展示された
CV-66 USS AMERICA搭載、VA-176"THUNDER BOLTS"のA-6E/154126,AE-502,バイセン機。
撮影はドイツ人のRAINER KARRAS氏。
この頃から行われていた「有料」の2階建てバスの上から撮影したショットです。
「有料化」が始まった日本でも、将来、有り得るマニア・サービスですね。






A-6E/152931,VK-00は9月28日、日飛からAMDハンガーへと牽引されて行きましたが、
その後の動きは掴めませんでした。


1973年9月8日(土曜日)ニッピからテストフライトへ厚木R/W-01を離陸するED-7.
同機は1時間後に着陸。それをマニア6人が撮影。
その後、A-6A/155619,ED-7は9月11日にもテストフライトを実施後、夕方、岩国へ帰投。
A-6A/155619の履歴。
ED-7(1971〜1973)→A-6E→VA-165/NG-503(1974〜1975)→VMA(AW)-224/WK-12(1975〜1976),
→VMA(AW)-332/EA-12(1976〜1977)→VMA(AW)-121/VK-9(1977〜1980)→KA-6D,
→VA-55/AK-524(1985〜1986)→VA-176/AE-514(1987〜1988)→VA-176/AD-514(Sep.1987),
→VA-35/AA-520(1989〜1990)→ネバダ州NAS FALLONでグランド・トレーナー。


基地南東のフェンス沿いから撮影。
此の場所はR/W-01午後側で唯一地上部を画面下に移し込める所なのですが、
厄介な事に「ガード・ボックス」が傍らにあり、彼らが中に居ない時を見計りながら撮影するという、
面倒くさい行動が要求される為、撮影チャンスは限られました。


ED-8は10月20日(月曜日)ニッピから出てテストフライトを実施。
10月27日、エンジンテスト。そして11月4日(火曜日),岩国へ帰っています。
A-6A/155708号機の履歴。
ED-8(1973〜1975)→A-6E→VA-145/NE-500(1980〜1981)→VMA(AW)-242/DT-5(1982〜1985),
→VA-176/AE-5xx(1991)→1991年7月21日,クレタ島付近、AYGONISE ISLANDの地中海に墜落。
クルー2名は緊急脱出し無事救助されましたが、機体は水没し失われました。


1時間半後の15時2分、漸くT/O. 1時間弱で戻って来たED-9をマニア4人が撮影。
このように、この頃の厚木では、仮え外来機が撮れなくてもニッピのテストフライト機が撮れたので
とりあえず「ボウズ」が回避できるのは有難い事でした。
A-6A/155680の履歴。
VA-165/NG-500(1970)→ED-9(1972〜1975)→A-6E→VA-34/AB-501(1978)→AB-505((1980〜1981),
→1983年8月26日、VA-42機として活動中の155680は北カリフォルニア州沿岸で訓練中に
PAMLICO SOUNDに墜落。クルー2名は緊急脱出し救助されています。


DON SPERING さんが1978年7月に撮影したVMA(AW)-332,EA-12.
撮影場所が特定できないのですが、何方かお判りでしょうかね?
A-6E/152902は1995年4月、大西洋に漁礁として沈められています。


EA-360のパイロットネームはCAPT HANK SIEFERT."EA-01"はL/D,16:40pm〜RJOIへT/O,18:12pmでした。
A-6E/155591はVA-155/NE-402を最後に、1993年漁礁として再利用されました。


1978年9月21日(木曜日)8時56分,嘉手納R/W-05Lへ着陸するVMA(AW)-224のA-6E/152908,WK-350/00.
パイロットネームはLT ROBERTSON,ミッションC/Sは"WANDA LYNN".
嘉手納で苦労したのはランウェイ05Rを撮影の定位置としていたので05Lと指示されると
高温と強烈な日射の中、猛ダッシュをかけて05Lの撮影位置まで駆けねばならず
この繰り返しが続くとグロッキーとなり、最後は「見ているだけ」状態でお手上げでした。
最悪は05Lを撮って05Rへ戻る最中に05Rに降りてしまうパターンで
このパターンが意外に多く、事前にエアバンで撮影順位を決めておく方法に変わって行きました。
つまり、フライトした機体のl/Dを30%前後は「撮り逃し」ていた訳で
随分と勿体ない話ですが、どうにもなりませんでした。
A-6E/152908はVMA(AW)-202/KC-14として活動中の1982年2月12日,フロリダ州Okefenokee Swampへ墜落。
クルー2名は緊急脱出し救助されています。


そのタキシングを135oで撮影しましたが、背景には真っ黒な雨雲が接近中で、
見る間に土砂降りのスコールに見舞われ全身ずぶ濡れ状態となってしまいました。
A-6E/155590も退役後、漁礁として使われました。


1978年9月26日(火曜日)11時20分,26TFTSのT-38A/65-10409,# 09,"CHEAT-52"は嘉手納R/W-05LをT/O.
因みにC/Sの"Ceat"とは「欺瞞、欺く」の意味でAGGRESSOR"機には最適なC/S.
"CHEAT-51"は11時54分、嘉手納R/W-05RへL/D."51"は精力的に午後も2フライト実施。
この日はZZのF-4が26機フライトし、各機、3ソーティーこなすので、延べにすると78回フライト。
外来機はFCのF-4EがT/Oし、本土からのマニア2人と共に撮影。
海軍機に関してはエアバンにガンガンCVW-14機(F-14A/A-7E/EA-6B/RA-5C)が入るものの、
一機も嘉手納には降りてくれませんでした。
T-38A/65-10409号機は1993年7月28日、AMARC入り。


嘉手納R/W-05Lを高々と離陸。
16時39分、再び嘉手納に姿を現した"READ-17"はR/W-05Rでローアプローチを三回実施。
そのうち、最後に行ったローアプローチが低く、地上部が入るほどだったのは驚きでした。


以前から撮りたかった「正面ショット」を撮ることが出来たのが、この日の収穫でした。
SR-71A/61-7960は現在、カリフォルニア州 CASTLE AIR MUSEUMに展示されています。


1970年7月18日(土曜日),一時的に晴れ間が広がり
やっとカラーで撮影出来たVA-12"FLYING UBANGIS"のA-4C/149493,AJ-406.
同機は1975年1月13日、MASDC入り。
1980年12月16日、シンガポール空軍にFMS供与され#902として運用。


12時43分、R/W-05LへL/D. EW誘導路を経由しエプロンへ入って来ました。
UE-12/"CHECKERTAIL-10"のパイロットネームはLTJG HOWARD HOGGS.
A-4E/151074はUE-03として1989〜1990年にかけ活動後、運用不可の裁定を受け退役。
2002年10月、厚木で保管・展示されています。


A-4M/159473号機は1994年5月24日、NFWS,#-57としてMCAS MIRAMARからAMARC入り。
1995年10月3日、アルゼンチン空軍へ移籍。


厚木を短期間ホームベースとし、早速、ローカルフライトに向かいました。
ところが、WB-00は初っ端からマイナートラブルが発生しフライト・キャンセルとなり、
WB-03単機でのミッションに厚木R/W-01を離陸。
VMO-6のブロンコは2機がペアーで定期的に機体を入れ替えながら
10月まで厚木を起点として飛び回りました。
此の時期のVMO-6機は「バイセン塗装」が施されており、
厚木に飛来したOV-10中、最も美しいマーキングを纏い、魅力ある被写体となっていました。
然し乍ら,残念なことにVMO-6"SEAWORTHY"は撮影から3か月後の1977年月1日に解散となってしまいました。
OV-10A/155413号機は2007年11月よりカリフォルニア州,PASO POBLESの
ESTRELLA WARBIRD MUSEUMに保管・展示されています。


今回は確か、以前、整備中の姿をアップしたと記憶しているのですが
"WHITE HAT AIRLINES"/CH-46A/152543がニッピ厚木工場へ向け離陸するショットをお届けいたします。
自分がWHITE HAT AIRLINES"と書かれたCH-46を撮影できたのは、この時が唯一で
とても大事にしていたスライドで、もちろん、今回が”初公開”です。
この貴重なバートルが撮れたのは西村さんからの情報があったからで、
彼は9月21日(木曜日)杉田ニッピ(正式には日飛横浜工場)で同機を撮影し
翌日、厚木エンドで其のことを我々に教えてくれたのです。
この日は空母ハンコックの艦載機フライインを期待してエンドに居たマニアでしたが、
フライインを捨てバートルに賭けたマニアは西村さんを含め5人。
二台の車に分乗し、杉田ニッピを目指し猛ダッシュで駆けつけました。
結局、CVW-21機のフライインは無く、無事、バートルを撮り厚木へ戻りました。
1972年9月22日(金曜日)その場でホバリングしながら機首を南西に向け
初めてSTARBOARDを見ることが出来ました。


CH-46A/152543はニッピを出た後、ベトナム戦に復帰せず本国へ帰還。
1973年8月13日、HH-46Aに改造後、NAS WHIDBEY ISLAND所属機となりました。
1980年9月13日の夜、SAR訓練中に事故が起き墜落。クルー5名全員が死亡。


1980年9月3日(水曜日)13時40分、厚木R/W-19へ着陸するMCAS FUTENMAのC-117D/50823.
垂直尾翼には緑色で沖縄の地図が描かれ、その右下に赤色で「鳥居」、
上部に同じく赤で"OKINAWA"と書かれていました。
このC-117D/50823号機は1981年9月に退役後、民間に払い下げられ
廃物利用の対象となり各所を転々とし、
2010年5月、沖縄県北中城村、喜舎場の共栄開発に引き取られ、
同社が運営するビア・レストラン"PARADISE GARDEN"屋上に設置されました。
しかし、塗装等の保存修復作業を行わなかった為、腐食が進み劣化。
2012年8月、屋上から撤去され廃物処理され終わっています。


NF-606は此の日、再びVFRでローカルフライトを実施。
EA-6B/16079はVAQ-129/NJ-916号機として活動中の1989年7月24日(月曜日)、
クロスカントリーでNAS WHIDBEY ISLANDを離陸し10時にNAS NORTH ISLANDに着陸。
17時30分、NAS NORTH ISLANDを離陸しNAS WHIDBEY ISDLANDに向かったNJ-916は
カリフォルニア湾岸上空を飛行中にエンジン故障が発生。
パイロットのLT JOHN ZIEBEL(31歳)とECMO/ECMO-1の訓練生、LTJG KEVIN LESLIE(27歳)が
最初に緊急脱出。遅れて後席左側に搭乗していたLtCDR C.L.MITCHELL(CMO-3)も続いて脱出。
ところが、不運にもLT ZIEBELとLTJG LESLIEの2名は暗くて発見できず死亡してしまい、
LtCDR MITCHELLだけが救助され病院へ搬送され救命処置を施され蘇生。
後にLtCDR MITCHELLはVAQ-138のCOを務め退官まで元気に過ごしました。


EA-6B/161247号機は1994年3月4日、ノースカロライナ州、MOREHEAD CITY近郊、
BOUGUE FIELD上空を飛行中、鳥がエンジンに吸い込まれ機関停止。
搭乗中のクルー3名は緊急脱出に成功し無事救助されています。


1975年8月5日(火曜日)厚木R/W-19を編隊でローアプローチする(NF-312)とNF-314を
仲間4人と撮影。
(NF-312)はVA-125/NJからVA-93へ移動直後で未だマーキングが施されておらず、
垂直尾翼のBuNoの下4桁が大きく書き込まれたままでのフライトが目を惹きました。
A-7A/153226/153162の両機とも、後にA-7Pに改造後ポルトガル空軍へ売却されています。


厚木では隣接する各市との覚書で編隊離着陸禁止、T/Gは2回まで等々、
細かく独自のフライトルールが定められていて、パイロットからこれらのリクエストがあっても、
管制官は「フライトルールで禁止されている」を連呼しマニアを消沈させ続けました。
それ故、今回アップした2ショットは”掟破り”のフライトで、マニアを喜ばせたのです。
A-7A/152669号機は2016年9月、テネシー州SEVIERVILLEのTENNESSEE MUSEUM AVIATIONに展示。
A-7A/153140号機は1980年9月、ポルトガル空軍でスペアー用として使用。


パイロットネームはLCDR EV SHIPE. 他にCVW-5機24機がフライト。マニア5名。
この頃から、厚木基地外周フェンス内側に「目隠し」用の樹木の植樹や警備が厳しさを増し
R/Wエンドにはパトカーの警ら、公安の職質等が増え「撮影環境」が劣化して行きました。
要は「単なる」降りや上り以外は撮りずらくなってしまったのです。


1974年8月7日(水曜日)9時20分、厚木R/W-19へ降りる空自のC-46D/61-1128を
ニッピ山から撮影。C-46をニッピ山で撮る事は稀でラッキーでした。
61-1128号機は1956年12月から1978年6月まで空自に在籍。
1979年、N-54511のレジを取得し8月8日、グアム島に駐機しているのが確認。
現在はジョージア州,BALL GROUNDで保管中。


"DREAM-ALPHA"は14時20分、R/W-35へL/D.厚木から5人のマニアが来ていました。
実は、此の時、横須賀に空母レインジャーが入港中でしたが、CVW-2機はフライインせず、
フライトラインはガラガラ状態。
その為、示し合わせて早朝から、退役が迫っているF-86狙いで入間に出かけたのでした。
このF-86F/82-7782号機は1980年1月8日、用途廃止後、アメリカへ返還。
QF-86Fに改造されPMTC,#32号機に生まれ変わりUS NAVY機となりました。
1981年2月,SPERRY FLIGHT SYSTEMSとなり運用。
1984年2月3日、兵器試験のターゲットとして使用され撃墜。


T-33A/71-5270号機は1957年5月28日から1989年3月22日まで空自で運用された後、用途廃止。


1974年8月10日(土曜日)6時30分,PR-25にグランドクルーが搭乗し,エンジンテストを7時まで実施。
7時20分、乗組員が搭乗。 7時23分、エンジンスタート。同32分、タキシング開始。
PR-25番は北鮮へのミッションに向け7時41分、厚木R/W-01を離陸。
17時44分、10時間に及ぶ飛行を終えPR-25はR/W-01へ着陸し,それをマニア8人と撮影。
EC-121M/145940号機は↑の撮影から20日後の8月30日(金曜日)20時、本国に向け厚木を離陸。
ラストT/Oが,エンジンのマイナートラブルで夜にずれ込み
狙っていた「厚木最後の離陸」が撮れず仕舞いに終わってしまったのは、残念無念でした。
145940はロッキード社で機器を降ろした後、10月27日、MASDC入り。
1981年5月、スクラップ処理され終わっています。


「ワン・ツー・ワン」から「オライオン」になった事で地上部が入る離陸ショットの撮れる確率が激減し
やっと撮れた「丹沢」入りショットも、此の時だけ太陽が雲の影に隠れアウト。
PR-32は13時15分、マニア9人が待ち受ける厚木R/W-19へL/D.
149669号機はEP-3Eへアップグレードされ運用後、
サウスカロライナ州、LAC GREENVILLEによって機器を降ろされた後、EP-3Eプログラムに使用されました。


因みに,Mdxは機首下のDECMアンテナに,極めて小さく"42"と書き込まれ、
「秘匿性」を最重要視していた為、Mdxの確認には苦労させられました。
RA-3B/144834号機は退役後、RAYTHON Corpで運用後、1990年9月7日、AMARC入り。
2012年5月17日、HVF WEST社でスクラップ。




15時12分、厚木R/W-19を離陸。
CF-9のキャノピー下に書かれたパイロットネームはLT G.C.CARPENTER,"SIRT BALL".
因みに、右舷/Starboardには何も書かれておらず、左舷/Portsideのみ書かれていました。
A-4E/151023号機はCF-9→UE-06→UE-02→UE-06と運用され,1992年3月,運用不可の裁定を受け退役。


13時30分,突然、2機のA-4F/NP-411&NP-511が飛来。常連マニア9人を喜ばせました。
今回は其の内の一機、NP-511のご紹介です。パイロットネームはLT HERSHBERG.
同機のBuNoは「きり」の良い155000番。
但し、A-4F/155000は1975年10月のVA-55解散まで極東に展開したものの、
以後、一貫してアメリカ国内の部隊を移動し最後まで来日はしませんでした。
A-4F/155000号機は1992年9月14日、NWS/#50所属機としてAMARC入り。




A-6E/155665号機はVA-95/NE-511として活動中の1993年4月14日、
ワシントン州SPOKANE,STEPTOEの南で複葉の農業機GRUMMAN G-164H,"Ag CAT"と空中衝突し、
2機とも墜落しました。
Ag CATの民間人パイロットは軽傷でしたがA-6Eの軍人パイロットは重傷を負いました。
国家運輸安全委員会はVFRルールに基ずく限界点での事故だと結論づけています。
因みに"Ag"とはAGRICULTURE(農業)を表す表記記号。


当日,一緒に撮影したマニアは10人."BAT-17"は7月5日,12時42分,岩国へ向けR/W-19をT/O.
A-6E/155699号機はVA-95/NH-500番として1995年11月22日、AMARC入り。
2000年7月25日、運用不可の裁定を受け退役
2015年10〜11月の間にスクラップ処理され終わっています。


以上、4枚のショットをご覧になってお分かりのように
此の時期は海兵隊機がガルグレーの「通常塗装」から本格的な「ロービジ塗装」に変わる
節目の時期でガルグレー機とロービジ機が混在した時期でした。
海軍/海兵隊機マニアの自分にとって「完全ロービジ塗装機」の出現は衝撃的で
現役マニアから足を洗う切っ掛けとなり生活の基盤が写真から花屋稼業へ移って行きました。
A-6E/160427号機は1997年2月6日、VA-75/AA-511としてAMARC入り。
2002年6月14日、運用不可の裁定を受け退役
2016年5月11日、HVF WEST社でスクラップ。


今回は1977年に厚木に飛来したVA-147#ARGONAUTS"のA-7Eを取り上げようと思い立ち、
手帳を調べたのですが、NG-400の厚木飛来日時がハッキリしませんでした。
何方か、ご存知ないでしょうか?
再度、資料を精査した結果、最も可能性のある日にちは、7月2日(土曜日)18時30分、
4機のNG/A-7EがR/W-01からL/Dする直前に、1機のA-7Eが"逆降り"=R/W-19した機体です。
この際、自分はエアバンを聞き損ね、
TwrからGndへ切り替わった際のC/Sが確認出来なかったのです。
このA-7EはR/W-19エンドまで滑走し、南のカドの誘導路に入り
日飛のフライトラインへ向かいました。
その後、NG-400が確認出来たのはL/D?から4か月近く経った10月26日のニッピ駐機場でした。
10月27日、早朝、NG-400はニッピから西側のNAVYフライトラインへトーイング。
13時6分、エンジンスタート。
13時37分,単機,25日,横須賀を出港した空母コンステレーションを目指し厚木R/W-19をT/O.
パイロットネームはCVW-9のCOであるCDR TONY LESS.
またVA-147機は各機,右舷機首,給油プローブの下にパイロットの誕生地名?が書き込まれており、
NG-400は"CITY OF SACRAMENTO"でした。


A-7E/156834号機は其の後、VA-12/AG-416(19844)→AG-410(1984〜1985)、
1988年」4月29日、AMARC入り。
2005年9月12日、HVF WEST社でスクラップ。


4機のNG/A-7Eの先頭を切って厚木R/W-19を離陸して来たNG-401,"CITY OF LEMOORE".
行き先は嘉手納でしたが、一緒にパスファインダーとして上がったRU-050は
NAS CUBI POINTを目指したので、NG達の最終目的地もキュービーポイントかもしれません。


又、Mdx-401が「星条旗」を模したデザインで描かれていたのを、今回のアップで分かりました。
NG-401のパイロットネームはVA-147のCO,CDR P.B.AUSTIN.
此の時の離陸を捉えたマニアは12人。
A-7E/156815はVA-174機として1986年6月10日、フロリダ州NAS CECIL FIELDからAMARC入り。
2005年4月4日、HVF WEST社でスクラップ。


昨日アップしたNG/A-7Eの続きです。
1977年7月3日(日曜日)12時1分,NG-400/401の次に厚木R/W-19を離陸して来たNG-402,"CITY OF HANFORD".
パイロットネームはLCDR PHIL GUBBINS. 彼は直ぐにCDRに昇格しています。


A-7E/159644号機は1988年1月16日、空母エンタープライズのNo-2エレベーターから海上へ滑り落ち、
コックピットに乗って居た航空メカニック、SAのPAUL E.MILLERは機と共に海中へ没し行方不明。
事故当時,159644の所属はVA-22/NH-3xxでした。


パイロットネームはLCDR SPEARMAN.
A-7E/158009は1987年8月19日,AMARC入り。
2005年8月15日、ネバダ州NAS FALLONでレンジ・ターゲットとして使用。


パイロットネームはLTJG DOUG HENRY.
A-7E/156863号機は1985年8月20日,
ネバダ州NAS FALLONにファイナルアプローチ中にコントロールを失い墜落。
NSWC,#03のパイロットは緊急脱出し助かっています。
この日はアメリカ独立記念日を祝して厚木(横田も)は一般公開されていましたが
その場所はエプロン・エリアではなく、正門を入ってすぐの南側グランドの
脇の道路上に4機のCVW-5機(NF-112/413/516/727)とWX-1のバートルだけが公開されました。


1977年7月31日(日曜日)15時2分、厚木R/W-19を離陸して岩国へ向かうVK-12,”COMBAT-83”。
同機は、前日の10時20分、青天のR/W-19へL/Dしていたもの。
A-6E/154154号機は1991年11月、VA-185/NF-412として運用不可の裁定を受け退役。


同機は7月29日(金曜日)13時25分、R/W-19へ"GUN BENE-ONE"のC/S.でL/Dしていました。
A-6E/154156号機は1996年1月16日、VA-196/NK-504としてAMARC入り。
2000年7月15日、運用不可の裁定を受け退役。
2018年8月20日、HVF WEST社でスクラップ処理。


1975年10月27日(月曜日)8時30分、NH-500にパイロット搭乗。同44分、エンジンスタート。
9時18分、前日、9時、横須賀を出港した空母キティーホークを目指し厚木R/W-01をフライオフ。
此の時、自分の先輩、HARAさんが珍しくニッピ山へ登って来られ、
一緒に撮影台の上からNH-500の離陸を撮影。
但し、空母が近くにいる為か、フライパスのように高い離陸だったのは残念でした。
相鉄線脇からマニア11人が撮影しているのが見えました。


7月9日(金曜日)13時50分、岩国へ向け厚木R/W-19へを飛び立つEA-00,"ROYAL OAK-00".
"ROYAL OAK-00"はEA-06と同日午前中にL/Dしていたもので,マニア7人が撮影していました。
又、この日は34機のCVW-5機がフライオフしています。
A-6E/159180の部隊変遷。
NH-500→WK-00→EA-00→EA-352→NE-511→NE-503→NE-502→NG-504→1996年7月1日、AMARC入り。
2000年12月5日、運用不可の裁定を受け退役。
2016年5月11日、HVF WEST社でスクラップ処理。


1974年8月2日(金曜日)7時35分,CVA-41 USS MIDWAYに向け厚木R/W-01をフライオフするNF-314.
パイロットネームはLTJG PAUL DRESSER. このクルーズの後、彼はLTに昇格しています。
因みに、NF-314はマイナートラブルが発生し直ぐに厚木へ戻り
修理後、タキシーアウトしましたが途中でエンジンシャットダウン。
その為、LTJG DRESSERは空母に行けず厚木に居残りとなってしまいました。
その他の30機のCVW-5機は6時30分〜18時30分にかけて空母へ向けフライオフ。マニア10人。
A-7A/153162の履歴。
VA-125/NJ-527(1976)→1977年5月5日,MASDC入り→1983年4月14日,CV Corpへ送られA-7Pへ改造。
1994年1月、ポルトガル空軍 # 15524としてMONTE REAL ABでゲートガード機となる。


機体に不具合が発生し13時55分、NF-411にエスコートされながらR/W-19へ緊急着陸。
揚力関係のトラブルなのか、着陸高度が異常に高く不安定な着陸でしたが無事L/D.
NF-414のパイロットネームはLTJG DONOVAN. 彼も直ぐにLTに昇格となっています。
又、サポートに任ったNF-411は、
機体に塗装がされていない「ジュラルミン肌」のままフライトし、
1960年代によくあったニッピ機のことを思い出し、懐かしかったです。
A-7E/159272の履歴
VA-94/NL-403(1977)→VA-56/NF-414(1979〜1980)→VA-113/NE-307(1982)→VA-105/NL-406(1983),
→VA-93/NF-300(1983〜1986)→1989年8月25日、AMARC入り→A-7Pとしてタイ海軍へ納入。
U-Tapao ABに於いて用廃。


NL-406のパイロットネームはLT D.J.GLASBY.
2分後の11時7分、L/D. NL-406は14時9分〜16時10分にもローカルフライトを実施しましたが、
太陽は顔を出さず、11時5分のT/Gの一回だけ晴れただけという悪天候の一日でした。


A-7E/158011はVA-192/NM-307号機として1991年2月27日、AMARC入り。
2011年10月11日、HVF WEST社でスクラップ処理。


大型の台風14号(NANMADOL)による風雨の音が障り熟睡出来ず起きてしまいました。
"Nanmadol"は現在、佐渡の南西を東北東に進行中で日本列島を斜めに横断し
東北地方に向かっており、災害や農作物の被害が心配されます。
皆さんに於かれましては、台風に十分注意し安全にお過ごし下さい。
1984年7月5日(木曜日)15時51分、厚木R/W-19へL/DするVRC-50のUS-3A/157998,RG-712.
同機は現在、米海軍航空博物館に展示中です。


同機は17時21分、R/W-19を離陸しキュービーポイントへ戻って行きました。
US-3A/158868号機は其の後,1995年9月21日,カリフォルニア州 NAS NORTH ISLANDからAMARC入り。
2003年1月8日、運用不可の裁定を受け退役。
2018年5月17日、HVF WEST社でスクラップ処理。


南側国有地の残土の上から撮影。
VS-29"DRAGONFIRES"のS-3A/NK-700&704は前日にL/Dしていたもので、
横田のマニアからの情報を得て撮影に成功。
ところで、今回発見したのですが、画面右奥に「原チャリ」で来た白シャツの人物が
カメラを持って立っている姿が写っていました。
その雰囲気からマニアのように見えますが、撮影場所は、どう見ても「基地内」。
軍属の関係者なのでしょうか?気になる存在です。
此の時、空母エンタープライズは9月6日からキュービーのレイテ桟橋に停泊中でしたが
台風アイリスによる艦の損傷を避ける為、スービック湾の中心に移動。
9月14日〜16日の3日間、台風をやり過ごした後、再びレイテ桟橋に接岸。
CVW-14機も台風避難でNAS CUBI POINTを利用しハンガーは"すし詰め状態"となり、
あぶれた機体は嘉手納に向かい、NK-700/704は、其のあぶれ組の一つかもしれません。


S-3A/159390はS-3Bに改造後、1992年6月、VS-30/AA-700、CV-60を経て
2005年1月3日、CV-67・AA-700。 2005年7月21日、運用不可の裁定を受け退役。


CVW-19(NM),10機が厚木上空を飛び交う1972年7月31日(月曜日),
降りて来たのがMAAG(台湾軍事援助諮問グループ)のC-117D/17122。
この日、厚木R/W-19エンドに集っていたマニアは37人と自分は、
突然の外来C-117D飛来に慌て、戦闘・攻撃機の撮影ポジションから下がり切れず、
中途半端なショットになってしまいました。
結局、此の時が晴天順光で撮れた唯一のチャンスだったので、
後々まで悔いの残る失敗となったのでした。


CVW-19機の撮影に忙殺され撮り逃した自分でしたが、
自家用車を所有していた西村さんに教えたところ、即、MACh3さんと二人で撮影に赴き
ご覧のショットをモノにしました。19エンドに居たマニアは21人.CVW-19機,14機フライト。
手前のドラム缶は、ベトナム戦線からニッピに修理に訪れた機体から残留オイルを抜き取り
ドラム缶詰めにし再生業者に引き渡す場所が此処でした。
如何に多くの機体が日本のニッピに来ていたかが理解できるシーンではないでしょか。
"NAVY-17122"は8月3日、曇り空の厚木R/W-19を離陸し台北空港へ帰って行きました。
C-117D/17122は1977年4月から1981年10月までMASDCで過ごし、
1983年1月25日、ワイオミング州 GREYBULLのHAWKINS & POWERS AVIATION Inc所有となり、
N-2121Uのレジを取得し運用されました。


何故、ノーマーク機をアップ?と、思われるかもしれませんが
C-1,S-2系の双発機は「南のカド」までは転がらず、手前の"BE"に入るのが常で
滅多に"AE"タキシーウェイには来てくれなかったのです。
その中で、唯一の例外が"NIPPI"出の機体で、かなり高い確率で
南のカドを回ってくれたのです。
由って,ノーマーク機でも「カド回り」は例外的にシャッターを押す対象となり得たという訳です。
"NAVY-769"は元、CVA-63 USS KITTY HAWKの所属機で1962年から1972年までCOD機として使用された後、
日飛入りしていたもの。
この後、同機はアメリカ本国へ帰還し,1979年,NAS MIRAMARのベースフライト機として活動。
1984年、再び日本に飛来し、NAF MISAWAのベースフライト機となっています。


USS TICONDEROGAの頭文字"T"をアレンジした赤いTを尾翼とエンジンナセルに描いた
デザイン感覚は秀逸で、”地味”なタイプのC-1としては"マニア心"を擽りました。
"TICO-000"は7月15,16両日は台風でノーフライト。
7月17日(月曜日)早朝T/O〜L/D,18時55分。
7月18日(火曜日)6時55分、T/Oで何れも時間帯が悪く撮影出来ませんでした。
C-1A/136782号機は其の後、NAF CHINA LAKE,VX-5/XE-76のバイセン機として名を馳せました。


1974年9月11日(水曜日)8時30分、入間R/W-35を離陸する207空のT-33A/71-5322.
離陸高度があまりに低く、畑の際に植えてある桑の木に引っ掛かってしまいましたが、
パワーのあまりない"サンサン"ではちょくちょく見られる光景でした。
厚木のCVW-5機が留守の時、フィルムを消化したくなると、
仲間と連れ立って入間に行く事がありました。
T-33A/71-5322号機は1957年12月16日から1994年6月21日まで運用されました。


同機は1956年4月から1977年10月まで運用後の2020年7月、東京ヘリポート近くの
自動車修理工場を経営する方が自社の工場の一角に機首部分のみ保管中です。


F-86F/62-6428号機は1956年4月4日、空自に納入。1961年11月29日、RF-86Fに改造。
1979年7月24日まで運用された後、米国へ送還。US NAVYに移籍後、PACIFIC AIR MUSEUMに保管中。


厚木救難飛行隊のS-62J/8927,"ANGEL STAR-27". マニア15人が入場していました。
同機は1970年1月29日から1986年まで運用されました。


台風が過ぎ去ると気温が一気に低下し、秋のお彼岸らしくなりましたね。
此の時期の天気は「読み」が難しく花屋の当時はよく泣かされました。
今から47年前の」1975年9月27日(土曜日)11時、UE-27がR/W-01へL/Dし
ベースオペレーション前に駐機。
将校が搭乗し11時53分,エンジンスタート.12時30分,厚木R/W-01を離陸し沖縄へ向かいました。
ニッピ山から撮ったのですが、12時30分で、このような「ど逆光」となり、作戦失敗。
S-2の01,午後の離陸は高度が高く、加えて機体が小さい為「お墓」からでは「画」になりません。
そこで、時間が悪いのは承知でニッピ山から撮影したのですが、此の時はXでした。
この日、エンドに居たのは西村さんとMACH3さんのお二人。


2機はVFRでKADENA ABへのアプローチをリクエスト。
13時55分、嘉手納R/W-05LへL/Dして来たのは"CHECKER-40"FLIGHT/UE-40と42番でした。
2機はEWタキシーウェイに入りホバリングしながらDWに駐機。
"CHECKER-40"FLIGHTは9月26日(火曜日)10時40分,R/W-05Lを離陸しましたが、
行き先は聞きそびれて不明。
SH-3G/151533の履歴。
HC-1,DET-3/NP-006(1973)→HC-1,DET-2/NF-726((976)→VC-5/UE-42(1978)→HC-1/UP-726(1991),
1994年4月6日、AMARC入り→2005年3月、NAF CHAINA LAKEでレンジ・ターゲットとして使用。




相鉄線脇からもマニア8人がUE-02/-03のL/Dショットを撮っていました.
TA-4J/155117の履歴。
VT-21/3F-xxx(1969)→VT-7/2K-xxx(1973)→VC-5/UE-02(1974〜1981)→UE-14(1982〜1992),
1992年9月30日、MASDC入り。


1977年7月18日(月曜日)16時54分,厚木R/W-19へ着陸したVAQ-308のKA-3B/147656,ND-634,”GOLF-50”は
グランドにVQ-1ラインへの駐機をリクエスト。
すると、コントローラーは現在、VQ-1ラインは"Warning Area"に指定されており、
"GOLF-50"駐機の許可書類は回って来ていないと言われてしまいました。
そこでコントローラーからAMDラインに駐機するよう指示が出された"GOLF-50"は
仕方なくAMDラインへと向かいました。
ND-634から遅れる事、4分後にL/D.したND-636,"GOLF-53"はVQ-1から駐機許可書が出ていたようで、
すんなりとVQ-1ラインへのタキシングが許可されました。
着陸から一日置いた7月20日(水曜日)9時40分、ND-634は韓国、OSAN ABに向けR/W-19をT/O.
同機のキャノピー下には、機種は不明ですが航空機のシルエットが赤で描かれていました。
又,Mdx右下にウェーク島の地図が黒で,エンジンカウリングにも黒でVQ-1のバニーが描かれていました。
KA-3B/147656の履歴。
1960年7月、US NAVYに配属→VAH-6/NG-6(1962)→VAH-2/NL-604(1965)→VAH-2/NE-602(1966),
→1967年5月、NARF ALAMEDAでKA-3Bに改造→VAH-2/NL-604(1967)→EKA-3B→VAQ-130/AE-716(1968),
→VAQ-130/NM-615(1972〜11973)→VAQ-130/NE-610(1973〜1974)→VAQ-308/ND-634(1976〜1985),
1986年7月、運用不可の裁定を受け退役。


まさかR/W-19,順光の午前中にND-636をニッピ山で撮影出来るとは思っても居ませんでしたので
失敗をせぬよう"気合"を入れて撮影したのを覚えています。


ND-636には前脚扉にVQ-1のバニーが、又、ND-634同様、Mdxの握下にウェーク島のマークが
ステンシル テンプレートされていました。
因みに,ND-634はOSAN ABから直接,横田へ向かい,18時前にL/Dし厚木に降りてくれませんでした。
ND-636も12時18分、厚木を離陸し横田へ向かいND-634と合流.翌日,横田から本国へ帰って行きました。
KA-3B/142662の履歴。
1959年4月、US NAVYへ配属→VAH-5/AJ-602(1961)→AJ-61x(1962~1963)→VAH-11/AJ-605(1964),
→VAH-10/NK-112(1964)→VAH-4/AG-816(1965)→NARF ALAMEDAでKA-3Bに改造〜EKA-3B→KA-3B,
→EKA-3B→VAW-13/NP-022(1968〜1969)→VAW-13/NF-03x(1968)→VAQ-135/AJ-613(1971),
→1974年5月10日、MASDC入り→1974年8月、VAQ-308/ND-63xとして復活。
1989年NAS ALAMEDAで用途廃止。


1975年9月9日(火曜日)10時45分,厚木R/W-01を離陸するVAW-114のE-2B/152476,NH-601.
同機は常連マニア7人が待ち受けるR/W-01へ11時45分、着陸。


NH-601は午後もフライトを実施。T/Gを繰り返しました。
因みに152476は其の後、VAW-115/NF-601となり、10月にはNF-602として飛び回りました。
又、同機は現在、メリーランド州 NAS PATUXENT RIVERで展示中です。


1975年10月10時30分、厚木R/W-01を離陸するVQ-1,DET-63のEA-3B/146459,PR-004.
同機は10月16日(木曜日)早朝,CV-63から厚木にフライインしていたものでした。
翌、17日にはCV-63が横須賀入港。
それから10日あまり、エンジンテストを繰り返すばかりで
なかなか飛ばないPR-004でしたが、やっと飛んだ時のショットが今回アップした写真です。


後方に離陸スタンバイ中のQA-10が写り込み、より説得力のある画像となりました。
以前から、このような「画」を撮影することを夢見て来たのですが
この日、その願いが叶い、とても嬉しかったこと、嬉しかった事。
但し、今回アップした画像はスキャナーを使ってデジタル化したもので、
細部の鮮鋭度が悪くパイロットネームやP/C名が解読不可能でした。
何れ、デジカメによるデジタイズ画像を新たに撮影し、
再度アップしたいと考えている次第です。
EA-3B/146459の履歴。
1960年7月、US NAVYへ配属→EA-3Bに改造(1962)→PR-4(1964〜1966)→PR-04(1974),
→PR-004(1974〜1977)→NG-004(197x)→PR-004(1980)→NH-004(1986)→NL-004(1986〜1987),
→VQ-2→1991年、MASDCでスクラップ処理され終わっています。


1977年10月10日から11月1日にかけて8機のF-14A TOMCATが空母コンステレーションから
厚木に飛来し、連日のように訓練飛行を繰り広げました。
此の時、離陸ショットを撮影していた自分は、いつものように”ニッピ山”から撮影しましたが
F-8,F-4とは比べものにならないような"高〜い"離陸で、全く歯が立ちませんでした。
何度かチャレンジしましたが結果はいつも同じで,以後,トムキャットの離陸ショットは諦め、
着陸に専念する事となりました。
因みに、F-14の南のカド回りは自分は一度も見たことは無く、タキシング・ショットもXでした。
今回、CVW-9機を紹介するにあたり、NG/F-14のスライドを捜してみましたが、
現時点で発見出来ず、NG/A-6Eからアップして行きます。
先ず最初は、今、唯一親交のある「竹馬の友」K.TANABEさんが1970年10月4日(日曜日)、
厚木R/WE-01エンドで撮影したVA-165のCAG機、NG-500.
彼は当時としては珍しく”自家用車”で厚木に通っていた"ブルジョア青年"で
カメラもNikonの200oで、雨中のNG-500もクッキリ、バッチリでした。


艦内に展示されていたNG-500の尾翼アップです。
此の時、CV-64は日本近海で活発な動きを示し、10月10日、横須賀入港。同25日出港。
11月2日、再び横須賀に入港。同6日、本国に向け出港と活発でした。
その間、厚木はCVW-9機の臨時ホームベースと化し、C-1,A-6,A-7,F-14,S-3,SH-3が頻繁に出入りし、
厚木のマニアを狂喜させました。
CVW-9機は11月8日のS-3A/8機のトランスパックまで、約一か月間に亘って厚木に居座り続け
厚木マニアの脳裏に強烈な印象を植え付ける事となりました。
此の時のショットは既に多くのサイトでマニアの方より発表済みとなっていますが、
当CTBBSでもA-7Eに引き続き,今回のA-6Eと,遅ればせながら,順次発表して行く予定です。




R/W-01午後側へ急いで移動し、左舷,Portsideの撮影に挑戦しました。
パイロットネームはCDR WOODY SPROUSE, XO.
このXOの名前を確認したいが為の"ダッシュ"だったのは、マニアの皆さんならお気づきですよね?
猛ダッシュした為、息が上がって苦しいのですが,そこを堪えて息を止め必死の撮影となりましたが
その苦労が全く写真からは伝わってこないところが「航空機写真」の辛い所です。
因みに、A-6E/151562,NG-502が厚木に飛来した日時が特定できません。
離陸は7月9日(土曜日)10時30分,R/W-19で、目的地は嘉手納。撮影者はSEKIYAさん一人。
ところで、明日は安倍元総理の国葬儀当日です。
一般参列者の記帳所も設けられるという事ですが,自分はアナフィラキシー症候群の保持者で
参列することが出来ません。
その為、明日は自宅で安倍元首相の追悼と供養を行いたいと思いますので
CTBBSはお休みさせてください。


昨日、執り行われた安倍元総理の国葬儀で彼を失った事の大きさが再認識させられ、
改めてテロに対して強い憤りがこみ上げて来ました。
今回の事件を受け、自分も色々と多くの事を見聞し平和法制の整備を積極的に推進する
意欲ある人物を応援して行こうと思った次第です。
そんな、こんなでCTBBSの投稿が遅れ申し訳ありませんでした。
では、前回に引き続きましてCVW-9機のご紹介を再開致します。
とは言え、CTBBSのスレッドが更新されて居らず、
MACH3さんの体調が気にかかるところではありますが、一応、スタートを切ります。
1977年10月18日(火曜日)9時50分、厚木R/W-01を離陸するVA-0165のA-6E/159899,NG-503.


同機は12時前に厚木に戻り、T/Gを3回実施後の12時5分、着陸しましたが何れも曇り空。
この日エンドに来たマニアは26人。CVW-9機14機がフライト。


至急、退去するよう警告を受け、慌てて下山するという一幕がありました。
どの様な経緯でMPがニッピ山に来たのか、永年,謎でしたが
今回のデジタイズ作業中に一つのシーンを発見し、ある仮設に到達しました。
「送りショット」のB/Nの視線に注目願います。
明らかに、此方を見ているのが確認出来ると思います。
軍用基地では、よくある事ですが「不審者」をクルーが発見した場合,
管制官に通報するのが内規で定められているのは周知の事実です。
此の時も、もしかすると、これではなかったかと思った訳です。
真相は当然、永遠にわからないでしょうが、今はどうなっているんでしょうかね?


11時23分、厚木に戻ったNG-503はT/Gを2回実施後、11時33分、着陸。
午後もNG-503はEVENT-TWOとして12時44分、T/O〜15時54分、L/D。
左舷、PortsideのパイロットネームはLCDR JIM THIELE.
この日エンドに来た常連マニア8人と10機のCVW-9機を撮影。
A-6E/159899号機の履歴.
VA-95/NH-507(1980〜1981)→VA-95/NL-507(1981)→VA-95/NH-500(1982〜1983),
→VA-52/NL-510(1987)→VA-165/NG-511(1991)→VA-52/NL-512(1992〜1993),
→VA-165/NG-514(1995)→1995年8月2日、運用不可の裁定を受け退役。
2018年8月20日、HVF WEST社でスクラップ処理。


今迄も「月別テーマ」のフライングが続いていますが,VA-165繋がりで引き続き写真をアップし、
一先ず,VA-165を終えたいと思いますので,ご了承ください。
1977年11月1日(火曜日)10時20分、A-6E/154159,NG-504は空母コンステレーションに向け
フライオフする為、フライトラインを出ましたが、管制官から指示された誘導路は何と”CW"!
「お墓」前で誘導路"DW"のショットを撮ろうとしていたマニア31人は愕然となり大騒ぎ。
そんな中、NG-504は指示された通りCW"からR/Wに出てランウェイバック。
「お墓」に居たマニア達は意図していたタキシングショットが撮れず、
茫然とNG-504を見つめるしかありませんでした。
自分は此の日、R/W-19運用と知りトムキャットの19上りは高くて撮れないと判断し、
最初からタキシング狙いで「ニッピ山」に詰めていた為、此の急変にも対応出来ました。
NG-504は館山沖を航行中の空母コンステレーションに向け11時2分、R/W-19をフライオフ。
パイロットネームはLCDR RAY CINCO.
A-6E/154159はVK-2→DT-3(1984)→VA-34/AG-504(1994〜1996),
→1996年8月2日、バージニア州、NAS OCEANAからAMARC入り
2002年6月14日、運用不可の裁定を受け退役。
2015年5月21日、HVF WEST社でスクラップ処理


マニア6人が離陸ショットを撮っていました。
パイロットネームは米空軍のパイロット CAPT RICK MUGG, USAF.
通常、グリーンのリボンに黄色で書かれているVA-165のパイロットネームですが、
NG-506だけは空軍パイロット搭乗を示す、ブルーのリボンに白文字で書かれ区別していました。
不思議な事に、今に至るまで、このようなプラモを見た記憶が有りませんが
皆さん、既に製作済みなんでしょうかね?
A-6E/155662の履歴。
1969年,海軍へ配備→A-6C→VA-165/NG-512(1970)→VA-42/AD-550(1974)→VA-165/NG-506(1977),
→VA-115/NF-500(1996)→1996年7月22日、AMARC入り
2000年12月5日、運用不可の裁定を受け退役。
20016年1月14日、HVF WEST社でスクラップ処理




同機は9時44分、"KOFU"に向けT/O〜厚木に戻りT/G後、降りたもの。
A-6E/155627,NG-511から後の動きです。
VA-52/NL-511(1981〜1982)→VMA(AW)-533/AA-504(1984)→VA-176/AE-507(1992)→VA-85/AB-511(1993〜1994),
NAS FALLON AIR PARKに於いて展示中。


以前、No-4787でご紹介したVF-92”SILVER KINGS"のF-4J/155753,NG-201の
未発表ショットが出て来ましたのでアップ致します。
永らくニッピ入りしてくれたお陰で色々なショットが撮れたNG-201でしたが、
此の垂直尾翼を黄色に塗った別のVF-92機が厚木を訪れたことは無く
その意味でもNG-201,厚木飛来は貴重な事でした。
1974年6月26日(水曜日)11時14分,ニッピから出てテストフライトに厚木R/W-01を離陸するNG-201.




1974年8月3日(土曜日)11時8分、厚木R/W-19を離陸して行くNG-201.
同機は12時25分、マニア8人が待ち受けるR/W-19へL/D.
又、NG-201は昼食後、再びテストフライトを実施しています。


R/W-19を離陸し那覇経由でベトナムで作戦行動中の空母コンステレーションに向かいました。


今から47年前の1975年10月17日(金曜日)横須賀に空母キティーホークが入港。
厚木には14機のCVW-11(NH)機とCVA-63のCOD機、C-1Aの計15機がフライイン。
これ等の中にはCVW-11のCAG機であるNH-300/500/700/710/が含まれていましたが、
NH-300だけは機体の調子が悪く,1機だけ別行動となり撮り逃がしてしまいました。
入港から四日後の10月21日(火曜日)、厚木に降りなかった他の機体が見たくなり、
「按針塚」まで行き、SMC 500mmに3倍のテレコンバーターを装着し1500mmとし撮影。
此の時は三脚を持参せず”手持ち”で撮影するという「暴挙」に及び
殆んどのコマが”ブレブレ”で使い物にならず、数枚が何とか見られる程度でした。
それらのショットもテレコン1500mm故、解像度が悪く「陽炎」の影響、
そしてキティーから出た黒煙が前部甲板上に棚引き撮影の邪魔となり、残念でした。
その「黒煙」に纏わりつかれたS-2Gのショットがコレ。
BuNoが判ったのはNH-707とNH-715の2機だけ。




空母キティーホークは入港から一週間後の10月24日(金曜日)横須賀を出港。
10月28、29日にかけて7機のCVW-11機がフライオフ。
此の時のキティーホークのような空母の入出港時に見られた
「フライイン」,「フライオフ」のような米海軍の「伝統行事」は、現在、影を潜め、
此処、厚木に関しては基地周辺の住宅過密化により周辺自治体の飛来・飛行禁止運動から、
米軍は艦載機の厚木飛来を正式に禁止。
様々な飛行ルール,訓練の変更を策定し実行.
CVA-63以降、空母自体の横須賀寄港も減少し現在に至っています。


1977年10月16日(日曜日)横須賀で一般公開された空母コンステレーションでしたが
甲板上は上がれず、格納庫内のみの公開で艦上の機体は岸壁や隣で公開されていた
海自の護衛艦「ひえい」からの撮影となり苦労させられました。
写真は岸壁から見上げながら撮影したNG-300らのショット。
厚木飛来時に撮り逃した機体で、全体像が写せず、喜びも1/2以下の消化不足だったので、
撮った事すら記憶から消えていて、今回のスライド捜索で判明したショットでした。


機首や尾翼アップの「小間切れ」ショットばかり。
眼に留まったのは、パイロットネーム。
"MAJ"と記されただけで、パイロットは複数のマリンコ"MAJ"なのかと推測しましたが
エビィデンスがある訳ではなく、定かではありません。


逆光で足元も隠れていますが、取り敢えず「全体像」を捉えることが出来ました。
パイロットネームはLT ARMSTRONG.


1977年10月21日(金曜日)13時22二分、厚木R/W-01を飛び立ったNG-303の離陸高度は
此の時、厚木に飛来したCVW-9機中、最も低いものでしたが、
自分は01着陸側で眺めていただけで、意気消沈でした。
そのNG-303 は14時55分、R/W-01へ何事も無かったかのようにL/D.








前回NO-4990〜4997でご紹介致しましたVA-147機ですが、
新たに異なるコマが出てきましたのでアップ致します。
1977年10月27日(木曜日)早朝、日飛エプロから西側エプロンに移動後、
13時37分、厚木R/W-19から離陸したVA-147"ARGONAUTS"のCAG機、NG-400.


VA-147にとって此の時のクルーズはCV-64による四回目のクルーズで
24人の士官により12機のA-7Eを運用していました。
又、太平洋艦隊のA-7飛行部隊中、No-1の働きをした飛行隊として
「BATTLE EFFICIENCY "E"」を授与されています。




9時20分、L/D. EVENT-2は同じペアで10時35分〜11時43分。EVENT-3は13時6分〜14時30分。
EVENT-4は15時14分〜16時30分と精力的に飛行を繰り返しました。
そして2機とも着陸前に各々3回づつT/Gを実施し,23人のマニアを喜ばせました。
写真はEVENT-2,11時43分時のショット。パイロットネームは LCDR "BUD" BIERY."CITY OF OLONGAPO".


昨夜から高熱が出て眠れず大変でしたが,明け方,漸く薬が効き熟睡でき,回復しました。
年齢を重ね持病を抱えていると,このような事が間々起きるので注意が必要です。
1977年10月26日(水曜日10時38分、大島沖を航行中の空母コンステレーションに向け、
厚木R/W-01をNG-405と共にフライオフするNG-404/A-7E.156803.
NG-404は空中給油バディーポット D-704を装着したタンカー仕様機でした。
以前はKA-3Bが行っていた「タンカー業務」を
各A-7飛行隊内の数機が、こうして「自前」で「タンカー業務」を担っていました。
又、こうした「タンカー仕様機」の離陸は概して低い離陸の確率が高く
いつも期待を持ってカメラを構えていました。
又、この日、R/W-01エンドにテレビのニュース取材チーム数社が陣取ってCVW-9機の動きを撮影し
「悪意」のある偏向報道を夕方のニュース番組の中で伝えていました。
因みに,此の動きに気付いたのか,米軍側はエプロンに駐機していたCVW-9機(9機)全機を
あっと言う間にAIMD/VQ-1のハンガー内へ移動させ扉を閉じるという行動に出ました。
我々マニアの眼から見れば軍事関係のニュースが如何に嘘や偏向報道が行われているかは
明らかですが、「一般人」には当然見破れず、この偏向姿勢が今なお続いているのが現状です。
今になって「飛行機マニア」となっていた事で自然に身に着けた
経済・軍事・集団安全体制等の知識や視点が
現在の日本を考える上で大変役に立っている事に気付かされた次第です。
A-7E/156803号機はVA-147/NG-4xxとして活動中の1982年5月31日、
アリゾナ州 WHITE RIVER付近に墜落し、機体は失われました。


時間的には午前中でしたが右舷機首にだけ書かれていた"CITY OF VISALIA"の文字が撮りたくて
半逆光でしたが19午後側で撮影。


写真は11時43分の降りです。パイロットネームは LT WARD RISHER.


NG-411は左右でパイロットネームが違う為、機体両側面の撮影が必要でした。
A-7E/156819号機は1987年3月5日、AMARC入り。
2005年9月12日、HVF WEST社でスクラップ処理され終わっています。


1977年10月16日(日曜日)横須賀に寄港中の空母コンステレーション艦内で展示された
VAW-126”CLOSEOUTS"のE-2C/158640,NG-601.
ご覧のように機体の全体像は撮影出来ず、然も翼を畳んだ状態の為T/Cも見えずと
甚だ中途半端なショットとなってしまいました。
E-2C/158640の履歴。
RVAW-110/TT-340(1980)→VAW-116/NE-601(1988)→VAW-114/NL-600(1990),
1993年8月3日、AMARC入り。〜2008年7月1日も変わらず在籍中。


厚木にフライインする艦載機のコマンドポストとして厚木のCVW-5ベースと交信を開始。
いつも楽しみにしていたコマンドポスト機と厚木ベースオペレーション間の
通話を聞いていました。
話の内容は各機のT/C+Mdx+シングルかセクションか+離艦状態+厚木到着時の天気情報、
+ブレーキの利き具合+イベントNo+厚木フライトラインの駐機位置Noの確認であり、
厚木BOから各機のL/Dタイムが最初から順に読み上げられるとCOMPOST機がそれを復唱する
パターンがルーティン化されていました。
この行為は厚木の「入出港」時には必ず行われ、毎回楽しみにしていましたが
艦載機の「入出港」自体が無くなった今は、聞くことも叶わなくなり寂しい限りです。
これ等の通信は昔、米軍の世界的HF通信網”AIR WAYS"でも同様に聴取可能でしたが
こちらも通信のデジタル化で"AIR WAYS"が廃止され世界各地で行われていた
上記の通話が聴取不能となり、自分の「エアバン」聴取も終わりとなりました。
話が横道に逸れてしまいましたので、元に戻します。
そのCOMPOST機/NG-601のコントロールの下、NG-602は10月10日、8時29分、厚木R/W-01へL/D.
当日は15機のCVW-9(NG)機が6;27〜8;29amにかけて厚木にフライイン。マニアは8人。
CV-64は11時30分、横須賀に入港。
その寄港から8日目を迎えた10月18日(火曜日)10時2分、漸く、訓練に向け離陸したNG-602.




その後,E-2C/159498号機は NAS NORTH ISLAND,NADEP,SARDIP YARDで運用不可の裁定を受け退役。


1977年10月31日(月曜日)14時、海自と訓練中の空母コンステレーションから
2機のS-3A(NG-701/703)が厚木R/W-19へ着陸。それをマニア6人が撮影。
VS-21機はキャノピー下とMdx左側にクルーの名前が書き込んであり
両面合計で4名のクルー名が判るのですが、両側のショットが撮れるかは別問題。


因みに左舷、PortsideはLTJG STEVE CHAPPELLとAW-1 "SUBIC" STILLEY.
S-3A/16062は其の後、S-3Bに改造されVS-41/NJ-737号機として運用後、
2006年8月15日、フロリダ州 NAS JACKSONVILLEからAMARC入り。
2006年11月19日、運用不可の裁定を受け退役。


写真のNG-704のパイロットネームは LTJG "BUD" WEDERとLTJG BRIAN L.STINSON.


S-3A/160163はS-3Bに改造されVS-21/NH-700として活動後の2004年12月15日、
カリフォルニア州 NAS NORTH ISLAND からAMARC入り。
2005年4月20日、運用不可の裁定を受け退役。


撮影は1979年10月14日(日曜日),海軍記念日を祝し横須賀寄港中の同艦が一般公開された時のもの。
CVW-9(NG)ではなくCVW-15(NL)が展開したクルーズ時の公開で観客約五万人が見学に訪れ盛況でした。
S-3A/160157はS-3Bに改造後、VS-21/NH-700として活動。
2004年8月19日、カリフォルニア州 NAS NORTH ISLANDよりVS-41/NJ-724としてAMARC入り。
2005年4月20日、運用不可の裁定を受け退役。


今迄,衣替えせず「夏仕様」で過ごして来た為、
昨夜は寒くて眠れず,夜半過ぎに「冬仕様」に改め,やっと熟睡出来ました。
その結果、大幅に寝過ごしてしまい,このような時間のアップとなってしまいました。
今回は1977年10月16日(日曜日)空母コンステレーションに搭載されていた
HS-6"INDIANS"のSH-3A SEA KINGのご紹介です。
厚木でフライト中のショットは今回、発見することが出来ず残念でした。
8機編成のHS-6/SH-3Aにあって此の時撮影出来たのは3機と、やや低い確率。
飛行甲板上で撮影出来た唯一の機体、NG-723.
ローターブレード、尾部が折り畳まれコンパクトにはなりますが、
撮影するには”最悪の状態”となってしまうシーキング。
SH-3A/152119は其の後、SH-3H〜UH-3Hと改造され運用後、
2006年1月24日、運用不可の裁定を受け退役。


でも、よく見るとローターブレード固定装具のロック状態が良く分り、
これはこれで、プラモデラー諸氏には参考になるのではと思うのですが、如何でしょう?
SH-3A/152124の履歴。
HS-6/NG-734(1976)→HS-6/NG-724(1977)→HS-11/AB-610(1982)→SH-3Hに改造。
HS-17/AK-614として活動中の1985年8月22日、地中海で空母コーラルシーにアプローチ中、
バランスを崩し海上に落下。クルーは機体の沈没前に脱出し難を逃れています。


空母に乗艦出来たとしても、↑を見てお分かりのように満足のいく撮影など、先ず無理。
やはり、厚木で撮るフライト&タキシングショットが何といっても一番です。
厚木復活は有るのか? 元気な内に見て観たいものです。
因みにNG-726だったSH-3A,152127は1979年4月8日、リザーブのHS-84/NW-407として活動中、
アリゾナ州 BENSONの北東10マイルで墜落事故を起こしクルー5名全員が死亡しています。


CVW-9機、投稿の最終段階で漸くF-14A トムキャットのスライドを発見しました。
1977年10月21日(金曜日)12時28分,甲府のVFRのトレーニングエリアに向け離陸したNG-105は
14時12分、厚木R/W-01へT/G無しの一発降り。マニア8人が撮影。




1977年10月19日(水曜日)甲府のトレーニングエリアに向けR/W-01を12時8分、T/O.
14時5分,厚木に戻ったNG-105はT/Gを3回実施してくれましたが、何れも薄曇り。
滑走路上を見ると晴れていたので西側フェンス最深部へ急遽移動し"晴れ"で撮影出来ましたが、
それでも画面下に地上部分は入らず,着陸高度が如何に高かったかが分かります。


F-14A/159622号機は1978年7月15日、CV-64からの発艦に失敗し海上に墜落。
パイロットは緊急脱出し助かりましたが、機体は海中に没し失われました。


1977年10月22日は土曜日でしたが3機のトムキャット(NG-107/201/203)がフライトし、
マニア4人が撮影していました。
12時にR/W-01を離陸したNG-201は13時27分、オーバーヘッドアプローチからレフトブレークし、
ショートカットでR/W-01へ着陸。パイロットネームはLCDR"BUZZ"JOHNSONとCDR JOEL GRAFFMAN.
この着陸シーンがNG/F-14による最もマニア受けするL/Dでしたが、
ショートカットした分、内側へ食い込まれ、真横〜送りショットが撮影出来ずでした。
200o〜300oを選択したマニアは”背中バックリ”ショットが撮れた筈だと思います。


F-14A/159611号機はNG-201として1980年までVF-24で運用された後、1992年にVF-124/NJ-413として
活動し、1994年4月30日、NAS POINT MUGUで登録抹消。
その後、映画製作会社へ売却され、1998年製作の映画"surface to Air"に登場。
又、1995年〜2005年にTV ドラマシリーズ"JAG"でも使用されています。
そして2022年の映画"Top Gun ; Maverick"で使用されるなど引っ張りだこの存在でした。
現在はMoto Art社のオーナー、Dave Hall氏が買い取り、
"Plane Tags"という「キーホルダー」のような商品の材料として解体され
機体各部の色別に商品化・販売され人気商品となっています。
因みに、Moto Art社納入時は#214のMdxでしたが所属部隊等は不明です。


厚木R/W-01を離陸したVF-24のF-14A/159617,NG-203は13時28分、R/W-01へ着陸。
パイロットネームは LCDR DAVE LOVELADYとLCDR AL PALMER.


NG-201とNG-203は10月10日〜10月25日の25日間、厚木に滞在し訓練を実施
F-14A/159617はVF-24/NG-202として活動中の1982年6月4日、カリフォルニア州 ,
SAN CLEMENTE ISLAND 近海の太平洋上に墜落。
クルー2名はヘリコプターに救助され無事でしたが機体は海中に没し失われています。


今回、ご紹介したCVW-9機の最後を飾るのは、VQ-1からCVW-9へDET-Cとして派遣された
2機のEA-3B/144849と144854です。
1977年11月27日(日曜日)12時、厚木R/W-01を離陸したPR-007は14時23分、着陸。
マニア57人が撮影していました。
パイロットネームは LT KIDDERとADJ-1,JOE ROTH.
LT KIDDERはVQ-1,DET-CのOINC(DETを指揮する担当将校)ですが
通常はLCDRが任命されるのですが、LTが担当する例は,あまり見たことが有りません。


マニア7人が撮影。
EA-3B/144849の履歴。
VCP-63/PP-933(1961)→NATC(1968〜1969)→PR-1(1971)→PR-2(1972〜1973)→PR-7(1973〜1974),
→PR-07(1975〜1976)→PR-007(1977〜1982)→NL-007(1983)→NL-631(1983)→PR-007(1988),
→VQ-2(198x〜199x)→VAQ-34/GD-230(1990) →1990年7月27日、AMARC入り。
2005年1月11日、HVF WEST社でスクラップ処理


11時13分、厚木R/W-01へL/Dアプローチして来たPR-010.
同機は15時19分、三沢に向けR/W-01を離陸。17時30分、R/W-01へ緊急着陸しています。
パイロットネームは LTJG W. J. LUTIとENS D. C. MIANO.
此の撮影時点では既にCV-64へのDET-C派遣は終了していましたが、
汚れていますが塗装はDET-Cのままだったのが幸運でした。


尾翼付け根に描かれた赤いシェブロンと
「花文字」風のUSS CONSTELLATION, CVW-9の文字が目を惹きます。
EA-3B/144854の履歴。
PR-10(1963)→N/M;No Markings(1968)→N/M,#10(1969)→N/M,#9(1970)→N/M,#5(1970),
→PR-15(1971)→PR-010(1977)→NG-010(198x)→NF-010(1985)→NH-010(1986)→PR-010(1987),
1987年6月26日、カリフォルニア州 NAS MIRAMARで墜落事故を起こしクルー3名が死亡。


此方はCVWは異なるものの、空母は同じコンステレーションなのでアップ致します。
1985年10月7日(月曜日)9時17分、テストフライトに飛び立った"PR-006"は10時39分、L/D.
此の時、NK-006はラジオC/Sは常に"PR-006"を使っていた為、甚だ紛らわしくて困りました。
NK-006が最初に降りたのは10月1日(火曜日)8時33分、R/W-01でしたが、
それ以来、エンジンテストを繰り返すばかりでフライトせず、マニアはヤキモキ。
結局、8月24日にDET-Bの任務を終えてからVQ-1のミッションをこなせないまま
此の日,15時30分フィリピン、NAS CUBI POINTに向け厚木を去って行ったのをマニア10人と撮影。
長旅用に燃料満タンとして離陸したのが幸いし、一部地上部が画面下に写り込むほどの
低い離陸で撮れたのが、せめてもの救いでした。
不調続きの142671号機でしたが、事故も起こさず,何とか退役まで任務を全うし、
1989年4月28日、AMARC入り。2005年5月、AMARC内でスクラップ処理され終わっています。


艦長はCAPT M.A.PEELLE. ラジオC/Sは常に"NG-053"を使用していました。
又、左舷;Portsideのエンジンナセルにはネイビーブルー地に金色で"SPIRIT OF THE OLD".
右舷;Starboardには"PRIDE OF THE NEW"と書き込まれていましたが、
主翼の陰と色合いの組み合わせで、文字がなかなか上手く撮れず往生しました。
”NAVY NG-053”は13時30分、岩国へ向けT/O. 撮影していたマニアは8人。
翌々日の10月23日(日曜日)17時55分、R/W-01へ帰って来ました。
C-1A/146053号機は1983年5月11日、AMARC入り。
2010年5月、アリゾナ州 TUCSONのUNITED AERO CORPORATION YARD入りしています。


1985年10月23日(水曜日)14時,厚木R/W-19へ着陸するVAW-115のE-2C/160991,NF-603.
此の年の5月15日にE-2BからE-2Cへの転換訓練を終了したVAW-115は
徐々にE-2Cの導入を開始し、今回ご紹介した」NF-603のショットは
VAW-121/AG-011から回って来た時のもので、塗装途中の姿。
E-2C/160991は其の後、VAW-123/AB-602,CV-66 USS AMERICA(1993)等を経て
NAS NORTH ISLANDのNADEP,SARDIP YARDで運用不可の裁定を受け退役。


13時38分、T/Gを実施。同41分、着陸するところをマニア26人と撮影。
同機はVF-194”REDLIGHTNINGS"/NL-212だった機体で8月10日に飛来し
T/CやMdx等の文字類は消したものの”フェイリス・カモフラージュ塗装は残したため、
マニアの格好の被写体となっていました。
そしてフライトした際に使用した"NF-207"のC/SのままVF-151機となると思われましたが
翌10月19日のエンジンテスト後、ハンガー入りし、11月2日にハンガーから出てくると
"NF-200"変身。
アノ時、使われた"NF-207"のC/SはC/Sだけで終わり、幻の"NF-207"となったのでした。
F-4J/153798は其の後、F-4Sに改造されVMFA-312/DR-xx(1981)→DR-02(1982),
1982年10月8日、フィリピン西岸の海に墜落し機体は失われました。


1974年10月24日(木曜日)厚木R/W-01へ着陸したNAF NAHAのC-117Dは
翌々日の10月26日(土曜日)8時、那覇に向け離陸して行きました。
此の日、R/Wエンドには14人のマニアが集まっていましたが、
内、5人は横田で撮影後に厚木に来た連中でF-4D/UPx4,A-4E/CFx2,F-4E,QB-249等を
撮影した「二股がけ」組でした。


C-117D/50804もNAF KADENA所属機として活動を再開しました。
写真は1980年12月29日(月曜日)15時19分,厚木R/W-01へ着陸するNAF KADENAのC-117D/50804,#804.
同機は翌30日、8時21分、嘉手納に向けR/W-01を離陸しています。
C-117D/50804の履歴。
第二次世界大戦中の1944年11月14日、US NAVYに配属→FAW-14,San Diego.
昭和20年/1945年1月24日,Pearl Harbor→FAW-2(Feb10'45)→MAB-14 Naval Dest(Feb11'45),
→CNABS Okinawa(Feb'45;終戦時に沖縄司令部所属機)→NAB AWASE(Mar'46)→FASRON-122(Nov'46),
→VR-6(Jun'47)→FASRON-11(第11艦隊航空機整備部隊/COMFAIRJAPAN,日本艦隊航空司令部隷下,
厚木基地,Nov'47)→San Diego(Feb'48)→Colombus(Jun'48)→R4D-8/MSN-43320→C-117D(Sep18'62),
→FASU Danang,Vietnam(1969)→NSA Danang(Mar'69)→NAF Nana(1971〜1975),
→NAF Kadena(1975〜1981).


今日は自分の現役時代に厚木の「主」的存在だった部隊、
VR-21,”PINEAPPLE AIR LINES"のC-118Bのご紹介です。
VR-21は1957年7月15日、カリフォルニア州NAS NORTH ISLANDに在ったVR-5(RS)が解散し、
新たにVR-21として生まれ変わり、同時にDET NAS ATSUGI,JAPANが編成された事に始まります。
ですから、VQ-1,VC-5,HC-7と並んで”VR-21”のプレートが掲げられた格納庫が
自分のマニア開始時から存在し、言わば、「空気」のような存在となっていました。
その中でも”VR-21”は輸送部隊という後方支援が任務故、「地味」な飛行隊で
マニアの関心を引かず、相手にされていませんでした。
ところが自分は、どういう訳かヘリや輸送機関係が好きで
チャンスが有れば積極的に撮影していたのです。
其のおかげで,これらの機体のショットは他のマニアより多く持っていると思います。
逆に、そちらを優先し「外来機」や「艦載機」を撮り逃すという失態も多く経験してはいますが。。
1974年9月3日(火曜日)7時15分、厚木R/W-19を離陸しようとしたVR-21のC-118B/131573,RZ-573は、
マイナートラブルで離陸滑走を途中で中止しフライトラインへ引き返し修理となりました。
2時間後、修理を終えた"NAVY-31573"は9時35分、無事離陸。
夕方、R/W-19へ着陸し厚木へ戻っています。
C-118B.131573号機はオクラホマ州 ALTUS AFBに保管後,2000年にスクラップ処理され終わっています。


”NAVY-574”は13時、アガナに向け厚木R/W-19を離陸。それをマニア8人がエンドから見ていました。
C-118B/131574は1977年MASDC入り後、スクラップ。
因みにVR-21の前身は1945年4月に編成されたFTU-1 (Flag Transport Unit-1&2)が始まりで
C-118B/R6D-1の運用は1955年12月17日から始まり22年後の1977年3月30日,最後のC-118B/131609,RZ-609が
ラストフライトし”TOP THIS ; 358,836”の米海軍飛行部隊中、最高の安全飛行時間を達成し
引退に花を添えています。
又、部隊解散時に在籍した3機のC-118Bは空軍に移籍され、
残り3機のC-130FもVRC-50(RG)に所属替えとなり部隊の歴史に幕を降ろしています。
以上、此処まで調べるのに時間を取られCTBBSへの投稿が遅れたことをお詫び致します。
今となってはVR-21を知る人も少なくなり、情報自体も激減。悲しい限りです。


今回はリザーブ(予備役飛行隊)が運用していたC-118Bのご紹介です。
自分がヒコーキ写真を撮り始めた頃、
リザーブのC-118は「数字」+「アルファベット」のテールコードを使っていましたが、
1970年、30機のC-118Bにより三つのリザーブ飛行隊(VR-50/51/52)が誕生し
T/Cも通常の飛行部隊同様に、アルファベット二文字に整理されました。
個人的には、以前の「数字」+「アルファベット」の方が”RV"や”JT"のような「普通」のものより、
例えて言えば"6F"や"7W"等の方が個人的には好きでした。
其の新しい部隊が厚木に初飛来した日にちは現時点の調査では判明していませんが
1975年7月16日から8月21日にかけてVR-51/RV,VR-52/JT,VR-53/RTの三個飛行隊が
相次いで厚木を訪れたことが判明しました。
1975年7月19日(土曜日)にフライトしたRV-597をMACH3さんが撮っていますが
自分は撮り逃がしてしまい、前日撮った筈のスライドは未だに行方不明のままという為体。
ヤット見つかったスライドは曇り空のR/W-19離陸ショット,C-118B/131576,RV-576.
同機は7月29日(火曜日)曇りのR/W-19へL/D〜8月6日(水曜日)13時、R/W-19T/Oでした。
US NAVAL RESERVE FORCE隷下の予備役飛行隊"VR-51"はカリフォルニア州 NAS ALAMEDAが
ホームベースの部隊ですがDETをNAS WHIDBEY ISLANDに送って居り,RV-576は其のDETからの飛来でした。
因みにVR-51には、もう一つDET-GLENVIEWが存在しますが,厚木飛来は未確認です。
C-118B/131576は其の後、US NAVYからUSAFへ貸し出されC-118A/51-17647として運用後、MASDC入り。




翌8月14日(木曜日)9時15分、厚木R/W-01をT/Oする"NAVY-597"をニッピ山から撮影。


マニア6人と共に撮影。
C-118B/131597の履歴。
1958年、US NavyからUSAFに貸し出され、C-118A/51-17647として運用。
1964年、USAFよりUS Navyへ戻されR4D-1Z〜VC-118B(1962)と変化し
ジョージア州 NAS ATLANTAのVR-46(7B)の所属機となる。
1970年VR-51/RV-597を経て1985年2月21日、AMARC入り。
1988年11月14日、アリゾナ州 TUCSONのWESTERN INTERNATIONAL AVIATIONに売却。
その後、AMERICAN AIR FLIGHT Coに移籍しN-21780として運用。
1990年3月、レジをN-1597Fとして登録。
1993年2月、ALLCOIR AIR TRANSPORTとして運用。
1993年11月26日、ANTARCTICAのPATRIOT HILL APに着陸中、R/Wを逸脱し損傷。登録抹消。


今回はHAMANOさんが1973年8月に那覇で撮影したC-118のご紹介です。
HAMANOさんの言:初めてマリンコパークへ行った時に
台北から来ていた綺麗なVIP仕様のC-118がT/Gをしていました。


給油後、直ちに離陸しましたが、友人との会話に夢中になりタキシングを逃す失態。
R/W-19に載った時点で「お墓」に到着し何とかシャッターを押すことが出来ました。
JT-608は夕方、再び厚木へ戻って来ています。


その後,SF-3/QA-6/PR-35/RG-413と8時までに順次離陸して行きました。
午後になりPR-03/ED-1が飛来しマニア4人と撮影。
14時28分、ニッピからED-3が岩国へ向けT/O.
空母ミッドウェイのC-1がT/Gの最中、5機(NF-115/116/104/406/604)のCVW-5機がT/O.
C-118B/131608は其の後、MASDC入りを経て民間に売却されN-830CSのレジを取得。
アラスカのEVERTS AIR FUEL Coで運用後、2001年AMARC内でスクラップ。


1975年8月14日(木曜日)9時30分,厚木R/W-01を離陸するVR-53のC-118B/131616,RT-616.
VR-53は1972年,VR-52から部隊改編され誕生した飛行隊でした。


15時丁度、R/W-19をT/O.
機首に部隊のエンブレムを付けていましたが,リザーブ部隊機としては珍しい事でした。
C-118B/131598号機は1982年3月10日、バージニア州,NAS NORFOLKで運用不可の裁定を受け退役。


S/Nが水平尾翼に隠れて見えませんが65−10411ではないかと思われます。
HAMANOさん言:此の時、1機だけ居た「白いタロン」でした。


1973年11月18日(日曜日),HAMANOさんが那覇の公開で撮影したVC-5のSH-3G/148051,UE-42.
HAMANOさんの言:公開が終わった帰り道、ターミナルの方へ歩いていくと
SH-3Gが見えたので、一枚パチリ。
尚、この前にはDP-2E/UE-32が置いてあったのですが、
斜め後ろからの一枚しか撮っていません。
SH-3G/148051は1984年9月6日,カリフォルニア州 NAS NORTH ISLANDのHC-1/UP-727として確認。




"CHECKERTAL-20"FLIGHTは10時33分、T/O〜12時43分、L/D.
尚、A-4E/151074/UE-12はAQM-37 "JAYHAWK"を懸架していましたが、
着陸時に懸架していたかは不明。


1973年8月11日(土曜日)13時、厚木R/W-19へ降りるVQ-1のEA-3B/144849,PR-007を
常連マニア15人と共に撮影。パイロットネームは LT P.D.LAIR."RAY".
此のPR-007,実はPR-07番機のようで,Mdx-7の前に手書きで"00"を加えたものでした。
しかも"00"にはご丁寧に「黒目」が描かれ表情まで表現するという"念"の入れようでした。


初代ジェームス・ボンドを演じたショーン・コネリーからロジャー・ムーアに
バトンタッチされ上演。
「007/死ぬのは奴らだ」は世界興行成績で第三位、日本国内でも第二位を記録。
同名の主題歌もポールマッカートニー&ウィングスが起用され
Billboard Hot 100で第二位となり、映画と共に世界中で大ヒット。
その影響からかは分かりませんが、この"PR-007"機の出現には驚かされました。
これ以降、事ある毎にVQ-1では”PR-007”機が登場する契機となったのが同機でした。










それを撮影条件の良い嘉手納で撮影出来たHAMANOさんは"ツキ男"ですね。
MH-53E/163066,BJ-542号機は2021年4月時点でもNAS NORFOLKで活動が確認されています。


1975年9月10日(水曜日)10時33分、ニッピからテストフライトに飛び立つVE-1.
パイロットネームはLT/COL WILSON / CAPT MCDUFFE. P/C SSGT EZELL T.D, "EASY".
同機は8月18日(月曜日)16時30分、R/W-19へ着陸後ニッピ入りしていたもの。


R/Wエンドでは"仰ぎ見るような着陸だったと思われます。
F-4B/153036の履歴。
VF-121/NJ-xxx(1966〜1967)→VF-96/NG-602(1967〜1968)→1968年5月9日、北ベトナム上空で
HEFFERMAN & SCHUMACHERが搭乗する"SHOWTIME-602"はMIG-21を撃墜しMigキラーとなる。
→VMFA-323/WS-xx(1968)→VE-xx(1968〜1971)→VE-00(1971)→VE-000(1973)→VE-1(1974〜1975),
→F-4N→VMFA-321/MG-10(1977〜1981)→1981年1月21日、MCAS YUMAでL/Dに失敗し墜落。


今日はHAMANOさんがNAF NAHAで撮影したVEのF-4Bをご紹介致します。
HAMANOさんの言;マリンコビーチには私は二回('73,'74)行っております。
74年のVEは全て撮る事が出来ました。
1973年8月13日(月曜日)那覇R/W-18離陸に向けマリンコビーチ前をタキシングするVE-2.
F-4B/152990の履歴。
VF-114/NH-2xx(1967)→VE-5(196x)→VE-2(1973)→F-4N→VF-21/NK-200(1981〜1982),
→1983年11月14日、MASDC入り
HAMANOさんがVEのファントムを那覇で撮影していた当日、
曇り空の厚木ではCVW-21(NP)の艦載機7機(NP-311/015/102/416/614/616/605;着陸順)が
フライインし常連マニア10人が撮影していました。
このように、その時、どの現場に居たかで結果が異なるのですが
それを事前に把握することは至難の業ですし、好みも各々千差万別ですから
一概に決めつけられませんが、自分のような海軍機派は「撮り逃し」が怖くて
とうとう一度も「マリンコビーチ」へ行けず嘉手納一本槍でした。


此の場所は当時、軍用機のタキシングを「外撮り」出来る場所としては
日本随一だったのではないでしょうか? まるで公開時のタキシングのようですね。
F-4B/152300の履歴。
VMFA-531/EC-1(1965)→VF-96/NG-615(1966〜1967)→VE-1(1967)→VE-6(1973〜1974),
→F-4N→VMFA-321/MG-9(1978)→1984年10月28日、メリーランド州 JRB ANDREWSから
MG-9としてMASDC入り→1993年12月2日、ノースカロライナ州、NAD CHERRY POINTで
QF-4Nドローン機に改造され、1995年7月13日、ミサイルテストに使用されています。


F-4B/152992の履歴。
VF-96/NG-604(1966〜1967)→VE-2(1971〜1972)→VE-11(1973〜1974)→VMFA-351/MC-5(1976),
→VMFA-531/EC-02(1976〜1982)→F-4N→1983年10月13日、カリフォルニア州
NAS NORTH ISLANDで運用不可の裁定を受け退役→NAS ALAMEDAでの保管後、
CVN-65でDCCP(DAMEGE CONTROL CREW PRACTICES)機、VFA-131"WILDCATS",#65として使用。


1974年9月28日(土曜日)岩国から厚木R/W-01へ飛来したVMFA-115のF-4B/153036,VE-1.
パイロットネームはLTCOL C.V.SMILLIE JR. 西村さんと二人きりで撮影。
彼は1973年7月31日から9月21日にかけてタイのNAM-PHONG RTAFBでTF DELTA隷下の
VMFA-115、COとして指揮を執っていた人物でした。
TASK FORCE DELTA(TF-DELTA)は7thAFと1stMAWそしてMACからなる機動部隊で
VMFA-115は1972年4月1日から1973年9月21日にかけて4名のCOと5名のXOの指揮の下
作戦に参加し、LTCOL SMILLIE JRは4代目COとして采配を振るいました。
其のパイロットネームが,偶然1974年時点でも残っていたのはラッキーでした。
何故なら、此の時期のVEファントムの姿はあまり残って居らず
作戦内容も未だに未確認なことだらけで調査が進んでいないからです。
因みに,VE-1は一緒に降りたVE-10/152217と共にR/W-01を16時48分、編隊離陸でT/O.


パイロットネームもLTCOL WILSONとなり、機体も"平時"の美しさが戻っています。
此の日、1975年9月9日(火曜日)の15時2分に降りたVE-1は
厚木からローカルフライトを行い常連マニア7人と共に撮影。


パイロットネームはLT M.A.RIETSCH. ミッションC/Sは"FUNNGA".


同機は元VF-142/NK-201で、戦時下の為か大雑把な消し方で、薄っすらとT/Cが見えます。
F-4B/152244の履歴。
VF-142/NK-203(1965〜1966)→NK-201(1969)→VMFA-314/VW-16(1969)→VMFAT-101/SH-1(1970),
VMFA-314/VW-xx(Oct'72)→SH-41(1975)→F-4N→VF-201/AF-100(1982)→VMFA-134/MF-106(1985),
1985年5月9日、MCAS ELTOROでハードL/Dのため用途廃止〜同地でグランド・トレーラー機となる。


1972年9月18日(月曜日)15時45分、厚木R/W-19へ着陸するVMFA-122のF-4B/149413,DC-5.
常連マニア7人が撮影。
VMFA-115は9月27日にMAG-15から離れたので、F-4B型としては,
此の時が厚木最後の姿となりました。
因みにVMFA-122がF-4Bを運用したのは1967年から1972年の5年間と短期間でした。
又、その期間はベトナム戦争と重なり,普通は撮影は難しいのですが
厚木はニッピがあったお陰で,戦時中でも彼らの姿を撮れたという訳です。
1974年8月31日、F-4B/149413はカリフォルニア州 NAS POINT MUGUで登録抹消。


↑の撮影から6年後の1978年9月2日(土曜日)
VMFA-122は運用機種をF-4BからF-4Jにグレードアップし厚木に現れました。
"NICKEL-11"/DC-12と"NICKEL-12"/DC-10は16時13分、厚木R/W-01へL/D.
翌9月13日、17時51分、韓国 OSAN ABに向けT/Oしています。


"NICKEL-22"/DC-12は10時58分、R/W-23RへL/D〜14時37分、R/W-23RからT/O。
VMFA-122がF-4Jを運用した期間は1978年7月から1979年7月までの僅か一年。
1988年1月にはF/A-18Aの配備を受け2016年9月まで28年間運用。
現在はF-35Bを運用しLHD-8等5th/7thFLEETにDETを派遣し活動を継続しています。
F-4J/154781の履歴。
VMFAT-201/KB-10(Aug'69)→VMFA-251/DW-12(1975)→KB-10(1976)→VMFA-122/DC-12(1978〜1979),
→F-4S→VF-161/NF-107(1982〜1986)→NATC/SD121(1988)→1988年 NAS PATUXENT RIVERよりAMARC入り。
2007年2月28日、HVF WEST社でスクラップ処理


1975年9月13日、イギリス、PORTSMOUTHに寄港中の空母ニミッツ艦上で
JOHN J.WYNNEさんが撮影したVMFA-333のF-4J/153903,AJ-134.
F-4J/153903の履歴。
AJ-134(1975)→F-4S→VMFA-312/DR-9(19xx)→DR-10(19xx)→1987年3月18日、
フロリダ州 AVON PARKへ送られレンジ・ターゲットとして使用。


しかし、此の時,自分と仲間4人はいつものように車で大和のデニーズで
ランチ(ブリティッシュバーガー、ライス、サラダ、コーヒーで\910)を
食べていた為、「撮り逃し」。
この「撮り逃がし」を挽回しようと臨んだ上りでしたが、
"SHAM-76"/DN-101に目いっぱい高い離陸を決められ,敢え無く撃沈。
撮影後、着陸側に戻るとエンド残留組10人の「勝ち誇った」ような微笑と
冷たい視線に出迎えられたことを今でも鮮明に覚えています。
F-4S(J)/155783の履歴。
VMFA-232/WT-00(1974〜1977)→DN-101(1980〜19819)→F-4S→VF-201/AF-101(198x),
→1986年12月10日、VF-202/AF-xxxとしてAMARC入り。
2008年10月3日、HVF WEST社でスクラップ処理


F-4S(J)/153845の履歴。
VF-121.NJ-154(1974〜1975)→DN-105(1980〜1981)→F-4S→VMFA-232/WT-xx(1988),
1988年11月21日、ハワイ,MCAS KANEOHE BAYよりAMARC入り。
其の後、MCAGCC(MARINE CORPS AIR GROUND COMBAT CENTER)へ送られ
2007年11月5日、TWENTYNINE PALMS でレンジ・ターゲットとして用いられる。


1975年5月、KENNETH BUCHANANがサウスカロライナ州、MCAS BEAUFORTで撮影したDW-10.
2年後の1977年7月、岩国へUDP配備された直後は今回ご紹介した」DW-10のような
フルカラーでしたが直ぐに塗装を落とし"ロービジ塗装"となりました。
F-4J/153908の履歴。
VF-74/AA-102(19xx)→VMFA-312/DR-12(19xx)→DW-10(1975)→F-4S,
→1984年5月29日、MASDC入り→2008年10月6日、HVF WEST社でスクラップ処理


此の日、横須賀を出港した空母コーラルシーに向けCVW-15機が厚木をフライオフ。
その為、離陸側に待機していると、何とNL-500が着陸し見事に「撮り逃がし」!
F-4J/153856の履歴。
DW-6(1977〜1978)→VMFA-122/DC-255(1979)→F-4S→VF-301/ND-111(198x),
1988年、用途廃止→QF-4S→2000年9月26日、運用不可の裁定を受け退役。


厚木R/W-01に舞い戻りローアプローチとT/Gを其々3回づつ実施後、15時51分、L/D.
それを常連マニア6人が撮影。


1975年9月5日(金曜日)嘉手納でトレーニング中のVE-000.
撮影はHAMANOさん。
当日、厚木ではニッピからWXのCH-53Eがテストフライトを行いましたが
肝心のスライドが未だに発見出来ていません。
VMFA-115は機種をF-4BからF-4Jへ改変直後でしたが、
自分の感覚ではF-4BよりJの方が厚木へ良く飛来したように思います。
F-4J/153828の履歴。
VE^000(1975〜1976)→F-4S→VF-201/AF-x02(1986)→1986年11月20日、AMARC入り。
2009年10月14日、HVF WEST社でスクラップ処理


此の機体はNo-5042〜5045でご紹介したNG-201と同じ機体で
1978〜1979年にもWT-156として厚木に飛来しています。
VF-92/NG-201(1971〜1974)→NG-204(1975)→VMFA-232/WT-156(1978〜19789),
→1984年6月15日、AMARC入り→2008年8月5日、HVF WEST社に於いてスクラップ。


VMFAT-101”SHARP SHOOTERS"は訓練部隊故、米国内から出ることがなく、
日本国内に居ては撮影不可能な部隊。
F-4J/153780の履歴。
VF-121/NJ-213(19xx)→VMFAT-101/SH-35(1974)→SH-14(1977)→F-4S→VMFA-312/DR-xx(1988),
1988年8月22日、岩国のVMFA-212/WD-10としてAMARC入り。
2006年5月6日,フロリダ州 AVON PARKでレンジ・ターゲットとして使用される。


1985年10月8日(火曜日)ローカルフライトに向け厚木R/W-19を離陸したDR-01は
12時42分、R/W-19へ着陸。
F-4S/154782の履歴。
VMFA-115/VE-xx(197x)→VF-101/AD-103(1975)→F-4S→DR-01(1984〜1985)→VMFA-451/VM-xx(1986),
1986年10月22日、サウスカロライナ州,MCAS BEAUFORTからAMARC入り。
2008年10月2日、HVF WEST社でスクラップ処理。


"CHECK-61"FLIGHT OF TWO F-4Sは15時15分、岩国へ向け厚木R/W-19をT/O.
F-4S/155827の履歴。
VF-31/AC-104(1969)→VMFA-251/DW-4(1975)→F-4S→1986年10月22日、AMARC入り。
2008年6月13日、HVF WEST社でスクラップ処理。


マニア10人が撮影。"CHECK-12"は17時58分、岩国へ向けR/W-19を離陸。
F-4S/158354の履歴。
VF-121/NJ-194(19xx)→VMFA-333/DN-xx(197x)→VF-21/NE-210(1975)→F-4S→DR-12(1984),
1987年3月30日、DN-xxとしてサウスカロライナ州 MCAS BEAUFORTからAMARC入り。
2008年11月20日、HVF WEST社でスクラップ処理。


1985年8月17日(土曜日)13時4分、厚木R/W-19でT/Gを実施したDR-02,"CHECK-62"は
13時13分、着陸しCAG LINEへのタキシングを指示されCVW-5機横に駐機。
翌8月18日(日曜日)DR-02は僚機DR-08と共に串本周辺の訓練空域に向けR/W-19を離陸。
"CHECK-62"は13時5分、R/W-19へL/D.〜14時36分、岩国へ向け離陸。
写真は14時36分撮影のショット。
F-4S/155515の履歴。
VMFA-333/DN-xx(19xx)→VMFAT-101/SH-03(1977)→F-4S→1987年3月20日、DN-xxとして
MCAS BEAUFORTからAMARC入り。
2008年8月4日、HVF WEST社でスクラップ処理。


8月18日、12時10分、DR-02と厚木R/W-19を離陸〜13時5分、着陸〜14時36分、T/O.
写真は12時10分、離陸時の姿ですが、ロービジでこの時間帯の離陸ショットは厳しい。


F-4S/155862の履歴。
VF-84/AE-2xx(1970)→VF-11/AE-111(1976)→VMFA-451/VM-12(19xx)→DR-12(1983〜1984),
→F-4S→DR-08(1985)→VM-xx(1986)→1986年10月15日、AMARC入り。
2008年8月5日、HVF WEST社でスクラップ処理。


1978年9月16日(土曜日)13時18分、嘉手納R/W-23Rから離陸しようとするWD-01とWD-12.
"MARSA-10"FLIGHTは14時34分、R/W-23Rへ編隊着陸して来ました。
この日は厚木のマニア5人と撮影を共にし"MARSA-10"も給油を終えると
再び"VFR ON TOP"で訓練に飛び立って行きましたが、肝心の塗装がね〜。。


撮影日は1981年4月28日(火曜日)14時17分。マニア67人。
ロービジながらも機体は一応ガルグレイだし、文字も黒で従来のスケールなのに、
最も重要なT/Cが未記入! WD最後の一花を撮る事が叶いませんでした。


此の塗装が最終的にマリンコ・ファントムの定番塗装となりましたが、
各部隊の歴史に根差した個性を競い合うという個性豊かな海軍・海兵隊機塗装の伝統は
「ロービジ化」の名のもとに消し飛んでしまいました。








パイロットネームはLT R.B.CAVE,プレーンキャプテンP/CはCPL RAMLIN.
EA-6A/156992は1992年VAQ-33/GD-16として活動後、2007年3月、NAS KEY WESTで目撃情報あり。


1974年10月4日(金曜日)VMFA-232のF-4J/153791,WT-1がニッピ入りの為L/D.
19日後の10月23日(水曜日)整備を終えたWT-1は13時25分,テストフライトへT/O.
WT-1は13時50分、厚木R/W-01へ着陸。17時に岩国へ戻って行きました。
此の時WT-1を撮影したのは常連マニア7人。
F-4J/153791の履歴。
VF-121/NJ-161(1969)→WT-1(1973〜1976)→VMFA-451/VM-04(1976)→VF-191/NL-100(1977),
→VM-04(1978)→VMFA-333/DN-107(1981)→F-4S→VMFA-235/DB-04(1989),
1989年4月、ノースカロライナ州 MCAS CHERRY POINTで用途廃止。


パイロットネームはTAC C/Sの"STINGER"と"JACKAL".
F-4J/155818の履歴。
VMFA-232/WT-2(1974〜1977)→VMFAT-101/SH-00(1979)→F-4S→1986年10月30日、
VMFA-321/MG-xxとしてAMARC入り→2009年1月6日、HVF WEST社でスクラップ処理。


7時40分,グランドクルーがドラッグシュートを機体に挿入。
8時10分,パイロット搭乗→同30分,エンジンスタート。
ここでトラブル発生,WT-11の主翼先端部分が展開せず,キャンセル・クリアランス。
AMDが駆けつけ修理となり、問題解決までに3時間20分を要し
11時50分、再びエンジンスタート12時50分、やっとT/Oとなりました。
WT-11"THE PICKLE"は以前ご紹介済みですので、今回は未発表のWT-3と致しました。
F-4J/155801の履歴。
WT-11(1970)→WT-3(1973〜1977)→VMFA-235/DB-153(1978〜1979)→F-4S→VMFA-122/DC-4(1982),
→VX-4/XF-3(1985)→1986年4月25日、AMARC入り→2008年8月6日、HVF WEST社でスクラップ処理。


HAMANOさんが1966年10月24日(月曜日)岩国で撮影したVMF(AW)-235のF-8E/150329,WT-14.
カメラはオリンパス、ペンF.100mm。ハーフサイズでしたが良いカメラだったとの事。
HAMANOさんの言:私の唯一のマリンコのF-8です。DB(F-8B)の時は見事に”スカ”くらいました。
風は西風!8機出て来て全機上り。。ところが、降りが逆風なのに02からの降り。。”あア〜あ。


R/Wエンド直前で編隊を解きWT-6が先に着陸したのですが
僚機WT-7がWT-6を追い抜く形で先行してウェーブオフした為、
其方を先に撮影した判断が間違いでした。
結果的にWT-7を撮ってからWT-6の降りを撮るのは物理的に不可能なタイミングで
写真のようなショットが一枚残っただけでした。
此の時エンドに来ていた8人のマニアが上手く撮れたのか、どうか?
F-4J/153818の履歴。
WT-7(1974)→F-4S→WT-7(1977)→VMFA-451/VM-05(1978)→1980年1月2日、
サウスカロライナ州MCAS BEAUFORTを飛び立った同機は
F-4J/153853,VMFA-333/DN-xxと空中衝突し海上に墜落。


それを仲間二人と撮影。
F-54J/153833の履歴。
WT-13(1973〜1976)→VMFA-321/MG-0x(1977)→F-4S→1990年10月,MCAS CHERRY POINTで用途廃止。
→その後QF-4Sに改造されPMTC,#110として」運用→2004年9月7日、運用不可の裁定を受け退役。


1968年当時、厚木基地南側にあったエンジンテスト場では、
毎日のようにニッピ入りしたA-4やF-4がエンジンテストを行っていました。
そこは後方に排気避けの黒い簀子状の板が立てられた簡素なもので、
勿論、現在のようなサイレンサー等無い為、轟音と排煙が一日中、
市内に響き渡っていました。
今でな考えられない”基地騒音”でしたが、
此れと言った苦情は”市民”からは寄せられない「おおらか」な時代でした。
そのエンジンテストを終えニッピへ帰るDC-5の斜め後ろの姿を
辛うじて撮影出来た時のショットです。
F-4B/151454の履歴。
VF-154/NE-406(1968)→DC-5(1968〜1970)→1970年2月12日、
南ベトナムQUANG-TRI付近で海上に墜落しパイロット2名は死亡しています。


MACH3さんらと「洗い場」に出かけ撮影したのが此のDC-11.
F-4B/151502の履歴。
VF-151/NL-102(1965)→VF-21/NE-108(1966〜1967)→NE-104(1968)→DC-11(1968),
→F-4N→1978年1月17日、バージニア州 NAS OCEANAのVF-171/AD-xxxとしてMASDC入り
2004年9月17日、HVF WEST社でスクラップ処理。


01エンドは歓喜に満ち溢れ話に花が咲いていました。
その話に夢中になり過ぎていて、目の前に降りて来た1機のファントムに誰も気が付かず
「撮り逃し」を演じてしまったのが何と”DC-00”でした。
写真は視界から消える寸前のDC-00を国有地から撮影した”砂粒”ショットを爆拡大したもの。
F-4B/148414の履歴。
VMFA-314/VW-14(1967)→DC-00(1968)→VAQ-33/GD-xx(1970)→1970年5月15日、QF-4Bに改造。


F-4B/150441の履歴。
VF-121/NJ-101(19xx)→VMFA-323/WS-15(1965)→DC-12(1970)→DC-4(1970)→F-4N,
→VF-151/NF-213(1973〜1977)→1977年10月29日、NAS MIRAMARよりMASDC入り。
1983年8月1日、運用不可の裁定を受け退役。
1990年6月12日、AMCEPへ送られた後、Bob's Air Parkに於いて廃物処理。


1967年5月20日(土曜日)横田三軍記念日に川崎のY.TAKAHASHIさんが撮影した
VMA-311のA-4C/148472,WL-1,"TOPCAT".
原版は経年劣化が激しく色彩が抜け落ちていた為、
一旦、4x5版のカラーネガにデュープしてから画像の修正、補正を繰り返し再現。
最終的に35mmにスケールダウンするという作業工程を踏み完成しました。
A-4C/148472の履歴。
WL-1(1967)→VMA-121/VK-1(1967)→VMA-211/CF-1(1967)→VMA-223/WP-13(1967〜1968),
→VK-xx(1968〜1969)→VMAT-102/SC-xx(1969〜1970)→1970年7月14日、NAS JACKSONVILLEで
修理不能な事故を起こし1971年6月2日、NARF JACKSONVILLEで用途廃止。


パイロットネームはMAJ SID SNEDEKER,"OPSO".又 P/CはCPL GRESSの下には
黒で”戦車”のマークが、尾翼には同じく黒でハートマークが描かれ
其のハートを射抜く形で大きな黄色い”矢じり”が飛び出ていました。
A-4E/150013の履歴。
WL-13(1969〜1975)→VMA-131/QG-xx(1975〜1978)→VMA-124/QP-xx(1979〜1987),
→VC-12/JY-xx(1987〜1988)→1993年4月VT-7機として用途廃止。


A-4E/151096の履歴。
WL-18(1972〜1973)→VMA-211/CF-11(1974)→VC-5/UE-05(1976〜1981)→UE-20(1981),
→UE-05(1982〜1992)→1992年3月、用途廃止。


1970年10月10日(日曜日)早朝,厚木R/W-01を編隊離陸し空母アメリカへ向かうNG-112と111.
撮影はHAMANOさん、01の午前中に,こうした低い高度で編隊離陸されると
後方は「崖」状になっている為、下がり切れず写真のような結果になるのが悩みです。


かなり低い離陸であったことが判ります。
因みに、自分は南のカド回りを期待して待機していましたが
"NG-112"FLIGHTは非情にもAWタキシーウエイから直接R/Wに出る、
所謂、”L-ターン”を決められ指をくわえて彼らの離陸を見送るだけでした。
南のカドを回ってくれたのはVA-146と147のA-7E達だけで
残りのVA-165(A-6A/C),RVAH-12(RA-5C)そしてVAQ-132(KA/EKA-3B)は
L-ターンかR/W-バックで結果的には離陸組の勝ちでした。




昨日の10時50分、今日の7時20分と9時53分にも
R/W-01から離陸するジェット音(FA-18?)が聞こえました。
本日もHAMANOさんが撮影した写真3枚をご紹介致します。
1974年7月、嘉手納R/W-23Rへ着陸するJCのC-130E/63-7765.
同機は2005年8月1日、AMARC入り→2008年1月15日時点でもAMARCに在籍中。


HAMANOさんの言;マリンコ名物の早朝7時からの「石コロ拾い」です。
同機は1994年12月6日、AMARC入り→#2638としてフィリピンAFにて使用。


同機は後にJC-133Aに改造されニュージャージー州 ATLANTIC CITYのFAA Tch Ctrで
火災調査研究機として運用。1992年スクラップ。


1977年7月3日(日曜日)9時58分、厚木R/W-19を離陸するVQ-1のEA-3B/146450,PR-01.
垂直尾翼には小さなコウモリが斜めに描かれていましたが、
よく見て観ると「耳」はバニーで身体はコウモリという"合体キャラ;Rabibt-like bat"でした。
因みにEA-3B/146450号機はPR-001として空母レインジャーからディエゴ・ガルシアに向け飛行中の
1982年8月4日、コントロールを失いインド洋上に墜落。
乗員のPO 2 ROBERT LEE HUFF 一名が助かったものの他の乗員六名は行方不明となってしまいました。
後に6名は死亡認定されています。以下がその氏名。
LT FRANK N KERCHER / LT MICHAEL F BROWN / LT DAVID A PIES,
PO WILLIAM B SNIDER / PO BRIAN S WATSON / AIRMAN TERRY D SMITH.


此のショットの前のコマをANGELO ROMANO氏が刊行したVQ-1の本に掲載(P-158)していますが
撮影者名が別人で、この写真は私が撮影したものです。
又、同じP-158のPR-03も私自身の撮影。他にも多数の誤りがあり、
彼に連絡をし善処を申し入れましたが改善されませんでした。
「航空機写真」は私の最も大切にしている”宝”であり、かけがえのないものであります。
由って、これからも地道に自分自身で事ある毎に「訂正文」を発信していく所存です。


1974年12月6日(月曜日)13時30分,スペシャルマーキングのVQ-1/EA-3B,146452,PR-03が
厚木R/W-01へ着陸。撮影者は西村さん、ゲンちゃん、そしてGo,Nの三名。
どういう訳か、自分はPR-03と相性が悪く思ったようなショットの撮れない日々が続きました。
晴天下でPR-03が撮れたのは1974年の暮れも押し詰まった12月27日(金曜日)10時12分、
厚木R/W-01エンドへ離陸の為タキシーダウンした際に撮影した時でした。
この日のPR-03は北鮮への"SIGINT"ミッション行い14時15分、R/W-19へ戻って来て
マニア8人がL/Dを撮っていました。そのうちの一人はBRUCE R.TROMBECKYでした。




離陸後、右へ急旋回するスペシャルマーキングを落としたPR-03.
撮影場所はニッピ山ではなく,現在の草柳2丁目「リカーランド・トップ」建設前の空き地。
此の日、珍しく早朝7時40分から二名(K.TOKUNAGA,ISHII)が登って来ましたが
PR-03は彼らの遥か前方でライトターンし機体の「腹」が遠く見えただけで終わっています。
それでもPR-03は01から19に運用滑走路が変わった14時30分、
着陸しL/Dショットは撮ることが出来ました。


10時55分〜11時、FA-18が19でT/G?後L/Dしたようです。
1974年5月28日(火曜日)7時22分、北鮮のSIGINTミッションへ赴くPR-04.
当日は5月25日に横須賀を出港した空母ミッドウェイに向け
9時15分、2機のRF-4B(RM-603/606)がフライオフ。
続けて出て来たNF-404/405はマイナートラブルで離陸できず格納庫入り。
5月29日、11時43分、、漸くフライオフ。


CVW-11の一員として活動。
写真は10月24日、9時、横須賀を出港したCV-63を目指し10月29日(水曜日)12時30分、
厚木R/W-19からフライオフするPR-004のショット。
因みにPR-004は夕方、厚木に戻り、再びT/OとCOD機のような働きぶりでした。


7月に入りましたのでタイトルを変更させていただきます。
>M.WADAさん
"AL's Pearl of the Orient"は両面に描かれていたんですね。
私は右側しか撮っていません。
143186の経歴の補足をさせていただきます。
1957年1月17日にアメリカ海軍が受領し、1月29日にBuNo.143186として海軍に納入されました。
同時にバーバス・ポイントのAEWMATRON-2に配属されSH-13となります。
1962年9月18日WV-2からEC-121Kに改称し、その後EC-121Pに改造されました。(日付は不明)
1965年3月11日デビスモンサン入りし保管されました。
1966年4月6日 デビス・モンサンからTucsonのAFASDGに移され改修後、11月9日にダラスのLTV/NASCでEC-121Mに改装されました。
1967年2月13日 飛行時間 11,079時間を記録
1968年6月25日 VQ-1へ配備
1974年4月4日に再びデビス・モンサン入りし
1974年9月26日 アメリカ海軍から除籍
1981年2月11日 国防省から売り出しましたが買い手付かず、1981年5月21日 スクラップ処理されました。
1974年5月23日撮影
>MACH3さん
PR-27の補足説明、そして「タイトル」変更、ありがとうございました。
"AL's Pearl of the Orient"の”AL's"ですが"s"が"s"に見えず数字の"5"に見えてしまいます。
コメントの中で「再びデビス・モンサン入り」の"月"はタイプミスでは?と、思います。
PR-27は1974年4月3日(水曜日)8時50分、アガナに向けT/Oし、5月6日(月曜日)17時27分に
厚木R/W-19へ戻って来ています。
毎日記録破りの"高温"が続いて居りますので、どうぞお身体、ご自愛ください。
1979年5月3日(木曜日)14時、厚木R/W-01をローカルフライトに飛び立ったNF-103は
15時42分、T/Gを1回実施後に着陸。
同機はVF-161の前、VF-21/NE-107号機だった機体で、
新たにVF-161機として塗装する段階で後部胴体に書かれていた下4桁のBuNoを消さずに残したため、
背中に描かれた「黒いストライプ」にかかる部分を”反転”させるという”奇策”に出ました。
此処に、後部胴体にBuNoを書かないというVF-161の「暗黙のルール」が破られ、
VF-161史上、非常に稀な「掟破り」のチャージャーズ機が誕生したのです。




1981年2月18日(水曜日)10時28分、"PELON-51"FLIGHTは(NF)-116と共にアガナ経由で本国に帰還となり、
厚木R/W-01を離陸し、日本を離れました。
"PELON-51"FLIGHTは2月20日、アガナを出発、ウェーク島〜ヒッカムAFBのルートでフライトし、
本国へ向かっています。
F-4J/158372号機はVMFA-232/WT機として1988年11月21日、AMARC入り。
2008年11月19日、HVF WEST社でスクラップ。


1973年5月26日(土曜日)運用滑走路が01から19へ変わる寸前、1機のファントムが着陸し
ライトターンしてニッピのフライトラインに向かう姿を眼鏡を覗いていたマニアから悲鳴が上がりました。
それも其の筈、ただのマリンコのファントムではなく”マリンコの艦載機”!
それもLANTの空母アメリカに搭載されていたVMFA-333”SHAMROCKS"/AJのCO機、AJ-201だったのです!!
通常、ニッピ入りすると修理や整備で数か月は出て来ませんし、
出てきても「ノーマーク」ですから、マニアの尺度で価値はほゞゼロ。
ところがAJ-201はハンガーへ曳き入れず、その場で修理に取り掛かりました。
と、いう事は。。。皆の頭に”淡い”期待が過りました。
しかし、期待とは裏腹に時刻は刻々と過ぎ、あっと言う間に「夕方」。
やっぱりダメか。。、と、その時、眼鏡を覗いていたゲンちゃんが"パイロットが来たぞ”と叫びました。
この日エンドに来ていた14人全員が一斉に「お墓」に殺到。
「車組」に「お墓の木」の指定席3人分はキープされてしまい、残り11人はフェンスに張り付きスタンバイ。
そうこうしている内にAJ-201がエンジンスタート。この時点で離陸はほぼ確実。
残る心配はニッピのフライトラインを出てR/Wをクロスして我々のスタンバイする目の前の誘導路”DW"に
入って来るかどうかです。
もしもR/Wクロスせず、直接、滑走路に入りR/Wバックされたら400mmでも小さく話になりません。
しかし、皆がAJ-201を凝視するなか、同機はスンナリR/Wクロスしてくれ、一安心。
最後の心配、それも最大の心配は「露光量」が絶対的に足りない事でした。
太陽は丹沢山系の陰に没する寸前で「感覚的」には”闇”が迫り「写真」が撮れる環境ではなくなっていたのです。
ですから、自分が選択したフィルムは当然「モノクロ」。
ですが、ここに一人だけASA-25のK-IIを選択した人物が居ました。
それは”MACH3”さん、それを見て全員「気は確か?」,本当に"ブレ"ずに止められる自信があるの?
と,不審そうな,怪訝そうな視線を彼に送り、
彼が不敵な笑みを浮かべ"大丈夫,"だいじょうぶ"と返して来たのには、一同"唖然".
後に、I・NのサイトにMACH3さんの撮影したAJ-201のカラーショットが掲載され、
アノ不敵な笑みは自信の無さを覆い隠すための笑みではなく
"絶対に止めてやるんだ"という決意と執念から出た笑みだという事が分かった瞬間でした。
デジタル時代の現在なら、何の不自由もなく撮れる場面でしたが、
アナログ時代の1973年は、このように"腕前"と"集中力"そして何より"情熱"がモノをいう世界でした。
そう思うと、現代のマニアは昔以上に切磋琢磨しないと、他者より抜きん出た作品、存在となり得ない
厳しい世界の中に生きていると言えるでしょう。


1975年6月9日(月曜日)18時、嘉手納R/W-23Rから離陸するVMFA-232のF-4J/153833,WT-13.
F-4J/153833の履歴。
WT-13(1975〜1976)→WT-11(1977)→VMFA-321/MG-xxx(1977)→F-4S→1990年10月、
ノースカロライナ州MCAS CHERRY POINTで登録抹消→QF-4S,#-110/PMTC(1990),
2004年9月7日、運用不可の裁定を受け退役。


僚機NF-112と共にCV-41でT/G訓練を実施後、厚木に戻り再びT/G後の11時10分、L/D.
1977年から1978年の時期、VF-161と151の両部隊には”黒鼻”のファントムが存在し
「写真映え」する"黒鼻"ファントムはマニア達の撮影意欲を"そそり"格好の被写体となっていました。
F-4J/153872の履歴。
VMFA-235/DB-41(1969〜1970)→VF-121/NJ-150(1971)→NF-116(1977〜1978)→NF-102(1979),
→F-4S→VF-103/AA-2xx(1982)→VMFA-251/DW-xx(1983)→1984年12月6日、MASDC
2009年7月17日、HVF WEST社でスクラップ。


パイロットネームはLCDR ROG BOENNINGHAUSEN / LTJG BILL CLLAUSEN.
F-4J/153873の履歴。
VMFAT-201/KB-17(1974)→VF-21/NK-204(1980)→F-4S→1984年12月13日、用途廃止。
その後、サウスカロライナ州、MCAS BEAUFORTからVMFA-122/DC機としてMASDC入り
2008年7月24日、HVF WEST社でスクラップ。


11時54分、厚木R/W-01でT/G後、12時6分にL/D.
パイロットネームはLT STU BURFENING / LTJG PAZ HOENNINGER.
F-4J/155835の履歴。
VMFAT-101/SH-20(1974)→NF-113(1977〜1980)→VMFA-112/MA-05号機として1985年3月29日、MASDC入り。
2008年8月6日、HVF WEST社でスクラップ。


1972年7月8日(土曜日)台風避難のため、グアムのANDERRSEN AFBから嘉手納に飛来したB-52G/58-0189.
撮影はHAMANOさん。
この日,自分は,横須賀へ寄港中の空母コーラルシーを撮影しに出かけていました。
当時の厚木はNG,NP,NL,ND等の外来機の飛来が相次ぎ、他の基地へ撮影に行く余裕は有りませんでした。


同機はU-2Rのプロトタイプ機でU-2Sに改造され韓国、OSAN ABから嘉手納に移動しミッション.


1977年7月8日(金曜日)14時7分,NAS AGANAへ向け厚木R/W-19を離陸して行くVP-91のP-3A/151368,PM-4.
漸く撮れた"ピンクパンサー"のオライオンでしたが、生憎の空模様、然も高い離陸。
加えて、PM-4の離陸待ちの最中に別の"ピンクパンサー"/PM-9,150518が着陸してしまい「撮り逃し」。
VP-91は此の時期、アガナと嘉手納の二か所同時に部隊派遣させていたにも拘らず、
自分は、どういう訳か"ピンクパンサー"機に縁が無く殆んど撮れずに終わっています。


尾翼から憧れの"PINK PANTHER"は姿を消し、撮影価値は激減してしまいました。
P-3A/151368号機は後にEP-3Aに改造され運用。
1991年12月26日、AMARC入りしますが再び改造されUP-3Aとして復活しています。


昨日の投稿後、体調が思わしくなく病院へ向かいました。
医師の診断では、どうやら服用している薬の副作用らしいとの事で
検査に回り、各種検査となり一日潰れてしまいました。
という訳で、今日は以前準備して置いたHAMANOさんとNISHIHIRAさんの作品をアップし、
自分のショットは明日以降という事にします。
尚、追加検査と検査結果の発表があるので、少なくともあと2回(11日と20日を予定)程、
投稿の出来ない日が発生するかもしれませんが、その時はご容赦ください。
始めはNISHIHIRAさんの作品からご紹介致します。
1983年6月16日(木曜日)嘉手納に飛来したHM-14”VANGURD"のRH-53D/158746,BJ-534.
この日、厚木は雨で岩国のUC-12B/161518/5GがT/Oしただけでしたが、
嘉手納は目の前までタキシングしてくるので、
悪天候も逆に”凄み”が増す一助となり,NISHIHIRAさんは素晴らしいショットを生み出されています。






この時代、日本で”爆装”したファントムが撮れるのは嘉手納の特権でしたが
WT-00が装着したようなMrak-82/500Ibx6発装備を自分は見たことがありません。


1973年6月16日(土曜日)、NAF NAHAを飛び立ったNP-202は厚木へL/D後、ニッピ入りしましたが、
実習で抜けられず撮り逃がした為、翌々日、ニッピの裏から”激写”。
後に、A-330さんが那覇で素晴らしいショットを撮影されていてショックを受ける事となります。
F-8J/150323の履歴。
VMF(AW)-323/WS-1(1963〜1964)→VF-53/NF-200(1965〜1966)→F-8J→VF-24/NP-202(1973),
→VF-191/NM-104(1976)→1976年3月10日、MASDC入り。
1982年7月12日、ネバダ州 INDIAN SPRINGS RANGEでターゲットとして使用。


厚木R/W-19へL/D後、R/Wエンドまで転がり南のカドの誘導路AEへ入って来てくれました。
元、WS-3としてニッピ入りして全く出て来ませんでしたが、
突然出てきて、翌日もテストフライトを行い、本国へ帰って行きました。
F-4B/151011の履歴。
US NAVYからUSAFへ貸し出され4453rdCCTWで62-12191号機として運用→US NAVYへ返還、
→VMFA-323/WS-3→F-4N→VMFA-323/NK-103(1979〜1980)→VMFA-531/EC-06,
→VF-154/NK-113(1982〜1983)→1982年6月16日、運用不可の裁定を受け退役。
1986年、NAS ALAMEDAでグランド・トレーナーとなり、その後、ターゲットとして使用。


同艦に搭載されていたHC-3"PACK RATS"の
CH-46D/154825/154031,SA-14/15が厚木にフライイン。
着陸後、直ぐに2機のバートルはローターヘッドとローターブレードを外し
AMDのハンガー内へ運び込んで整備を開始しました。
着陸から二日後の6月19日(水曜日)10時、整備を終えたローターを装着完了。
11時10分、2機はテストフライトに飛び立ち、厚木R/W-19でT/Gを繰り返し行い、
13時53分、ヘリとしては珍しくR/W-19へ着陸した事で、やっと「地上」入りのショットが撮れました。


サボっていて大変ご迷惑をおかけしました。
やり残してあることをできるだけやってしまおうということで、今まで撮影したスライドのPC取り込みに集中していました。
プラモも放り投げてあるので、スキャン完了後となりそうです。
その中の1枚、
1973年6月9日に撮ったVP-19のP-3Bです。
コダクロームUでの撮影ですが、天気が悪いときやT&Gなどしているとよく標準レンズで撮影しました。
1976年4月26日(月曜日)はCVW-5機のフライインがあり、47機が飛来。
其の最中の14時50分に日飛入りの為L/Dして来た"BRAVE-05"は興味ある機体でした。
ノーマーク機であるものの、背中には大きな”HAWK"の消し跡があり、
何より注目されたのが尾翼方向舵下に書かれた”CUBI AIR GURD"の文字。
如何やら、この機体もキュービーポイントで永く「足止め」を食らった機体のようで、
それを揶揄してのジョークのようですね。
A-5A/155658の履歴。
1969年US NAVYに引き渡し→VA-85/NK-504(1980〜1970)→ED-5(1975)→VA-42/AD-532(1976〜1977),
→A-6E→VA-34/AB-504(1980〜1981)→VA-52/NL-511(1983〜1985)→NL-506(1986〜1987),
→VA-176/AE-507(1989〜1990)→VA-128/NJ-806(1991)→1991年10月17日、カリフォルニア州、
TWENTY PALM RANGESに於いて飛行中の火災により墜落。クルーは無事救助されています。


尾翼に書かれた"10"と「流れ星」のマーク、そしてパイロットのヘルメットから
辛うじてVMA(AW)−332 ”MOONLIGHTERS"、EA-10号機と認識出来るレベルで
青天、順光下、AEのタキシングで撮影しても判りずらい完璧なロービジ機と化していました。
アノ、素晴らしい頃の"MOONLIGHTERS"のフルカラー機を知っている身としては
耐えがたい塗装で、撮影意欲は激減して行きました。
A-6E TRAM/155581の履歴。
1968年US NAVYへ納入→VA-65/NH-501(1968〜1969)→VA-176/AE-501(1971)→A-6E→WK-10(1983),
→EA-10(1983〜1984)→WK-04(1984〜1985)→EA-12(1985)→EA-11(1986〜1987)→VA-42/AD-521(1994),
1994年5月25日、AMARC入り。2015年10月〜11月、AMARCを出る。


唯一、C/Sの"BAT-11"からVMA(AW)-242,”BATS"のDT-11と辛うじて判る難しさでした。
今に至るまで「ロービジ化」の流れは続いていますが
この頃のような極端な「低視認性塗装」は運用上、問題があるようで
現在,少しはマシになっていますが、昔のような「ハイビジ」への回帰は残念ながらなさそうですね。


胴体後部に"VMA AW"とまでは書かれているものの部隊を特定する「数字」が書かれていません。
同機は直前までVMA(AW)-332/EA-11だった機体でVMA(AW)-242/DT-11となったばかりで
未塗装状態で厚木に飛来したようでした。
A-6E TRAM/155615の履歴。
VA-165/NE-515(1968〜1969)→VA-196/NE-515(1969〜1970)→A-6E→VA-35/AJ-500(1980〜1981),
→WK-11(1983)→EA-11(1983〜1984)→DT-11(1984)→DT-6(1984〜1986)→EA-02(1986〜1987),
→WK-500(1987〜19889)→EA-500(1988)→WK-510(1989)→EA-510(1989〜1991),
1998年3月、フロリダ州NAS JACKSONVILLEで登録抹消。


P−3BもA−6Aも懐かしいですね。
趣味的にはアンテナやレドームを増設した改造型より初期型の機体を好む傾向があります。
初期型A−6Aの厚木初飛来は1965年のインディペンデンス入港前に飛来した機体で、WADAさんが撮影したようなノーマーク機でした。
この記念碑的初飛来の撮影者はハッチさんお一人でした。
P−3の厚木初飛来は記録と情報がないので何とも言えませんが、1963年11月20日に立川へ飛来したP−3A(VP−31/RP34/150607)が、
マニアが撮影した初のオライオンと言われています。撮影者はT.moriさん。


「もう少し早く生まれたていたら」とか「もう少し前に始めていたら」という後悔とも言えないマニア特有の“思い”です。
団塊マニアにとりまして、そんな記憶を思いださせるような本が来月イカロス出版から発売されます。T.Matsyzakiさん著の「今日は横田、明日は厚木」。
60年代前半の米軍機、自衛隊機を軸に各基地や空港へ飛来した軍用機への熱き想いが写真と文で再現されています。
本好きのヒコーキ写真マニアにとりまして珠玉の一冊だと思います。
西の人のお言葉を借りるとすれば「買って損はない」と言えるでしょう。
https://www.amazon.co.jp/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AF%E6%A8%AA%E7%94%B0%E3%80%81%E6%98%8E%E6%97%A5%E3%81%AF%E5%8E%9A%E6%9C%A8-%E6%9D%BE%E5%B4%8E%E8%B1%8A%E4%B8%80/dp/4802211740


60年代前半、厚木で人気ナンバーワンの海軍機と言えばファントムでした(横田ではありません)
そのファントムの厚木初飛来を撮影されたのがT.Matsuzakiさん唯ひとり。詳しく本書参照といたしまして、初飛来の1962年と言えば艦載戦闘機はF−3にF−8、
海兵隊はF−6にF−8とアメリカの第二世代戦闘機が謳歌していた時代。
そんな中でのF−4はまるで別世界から飛んできた“怪物”のように思えたものでした。
フォレスタル級空母のキティーホークも初めての来日で、艦上に並ぶCVG−11機の写真はキティーホークのメディア公開時に撮られたようです。


今日はパーソナルネームが書かれたRG/C-2Aのご紹介です。
1984年6月4日(月曜日)17時7分と11分にR/W-01へL/Dした2機のC-2Aは
翌朝,横須賀を出港し館山沖を航行中の空母ミッドウェイに向け6時51分に曇り空の厚木を離陸。
それから3時間半経過した10時24分,天候が急速に回復した厚木R/W-19へ”RG-425”がL/D.


こんな小さな事ですが、VRC-50機としては”異例”な事で、マニア8人は挙って撮影。




1972年5月21日(日曜日)、厚木三軍記念日当日、VQ-1のハンガー内で整備中のPR-24を
担当のメインテナンスから説明を受けるVQ-1の将校。
外見から見てVQ-1 DET ATSUGI,OICのCDR L.R.LAMBではないかと思われる人物。


現在、スライドが行方不明で捜索中のため、発見次第、映像をアップします。
因みにEC-121M/145936は1973年7月19日にエンジンランナップ中に火災が発生し修理不能な状態となり、
9月22日、運用不可の裁定を受け厚木で用途廃止。スクラップ処理され終わっています


7時45分、マイナートラブルの為、厚木R/W-01へ緊急着陸。
VQ-1のメインテナンスが総出で修理を行い3時間半後に修理を完了。
11時20分、マニア13人がカメラを構える中、PR-27は再びミッションにT/O.


11時40分、厚木R/W-19へ緊急着陸して来ました。
この頃、PR-27号機は退役目前でしたが、北朝鮮への情報収集任務は苛烈を極め、
何と、同日の離陸時間は午前2時53分! 任務とは言え、大変な仕事で、
143186号機も満身創痍の活躍ぶりで任務に当たっていました。


中々、見事な筆致で「味」のある表情を見せていました。
143186の履歴。
EC-121P→EC-121M(1966)→AEWBARONPAC/SH-13(1966)→VQ-1/PR-24(1968),
1974年8月24日、10時52分、本国に向け厚木R/W-19を離陸→9月26日、用途廃止。
1983年5月21日、スクラップ処理。143186の総飛行時間は15,571時間を記録しています。


1975年6月4日(水曜日)11時30分、厚木R/W-19をローカルフライトに出発するVF-161のCO機、NF-101.
パイロットネームはCDR T.R.SWARTZ。
この機体のスプリッターベーンにはベトナム国旗が描かれていました。
これは1967年3月1日に北ベトナム上空でズーニーロケット弾でMig-17を撃墜した
VA-76”SPIRITS"のパイロット時代のLCDR SWARTZの功績を顕したものでした。
因みに、其の時の搭乗機はA-4C/148609/NP-685でCVA-31USS BON HOMME RICHARDから出撃しています。
F-4N/150635は1983年6月22日、ネバダ州INDIAN SPRINGS RANGEでターゲットに使用。


この当時でも、フェンス内に植えられた「目隠し」用の樹木が相当はびこり始めて居り、
斜め前か真横のどちらか一方を一度しか撮影出来ず、此の時は「真横」を選択。
NF-106のパイロットネームはLT JOHN CONKEY / LTJG STEVE HISSEMと書かれており、
同機は11時55分、R/W-19でT/Gを1回実施後、12時5分、L/D.
F-4J/158374号機はVMFA-312/DR-12として活動中の1986年、ノースカロライナ州で
同じ部隊のF-4J/155833と空中衝突し墜落。


M.WADAさんのNH-115(#4524)のテストフライトを撮っていました。
ネガはカビだらけで、カビ取りをした後再度スキャンしたいと思っています。
1969年6月16日撮影
雨が音を立てて降る朝で目が覚めてしまいました。
>MACH3さん、
やはりNH-115のテストフライトを撮っていましたか。
TE-7の左側も撮れたようで、一挙両得で、流石です!
綺麗になった時のNH-115の画像、是非また見せて下さいね。
お身体、御大事にして下さい。
昨日はF/A-18?が3機(午前1機、午後2機)上がって行くのが見えました。NFかな?
1975年5月14日(水曜日)10時、厚木R/W-01へVMFA-115のF-4B/152990,VE-2がL/D.


其の時のタキシングで左側インテイクのスプリットベーンに漢字三文字が書かれていましたが
この画像はスキャナーを使った為、ピントが不鮮明で確認出来ませんでした。
今後、再びこのスライドが出てきた折には最近導入した「一眼レフカメラによるデジタイズ」で
再度デジタル画像を作り直しCTBBSにアップしようと考えています。
F-4B/152990の履歴。
VF-114/NH-2xx(1967)→VMFA-122/DC-9(1972)→VMFA-115/VE-2(1975)→F-4N→VF-21/NK-200(1981〜1982),
→1983年11月14日、MASDC入り。


光線状態は最悪でしたが、マニア14人が撮影。
その内、サラリーマンのマニア8人の方達からは声が上がり興奮した面持ちでした。
同機は此の日、西側エプロンにあるUS NAVYのAMDハンガーに入りましたが
翌日になってニッピにトーイングされています。
F-4B/153062の履歴。
VMFA-122/DC-7(1972)→VE-3(1973〜1975)→ F-4N→VMFAT-101/SH-41(1977〜1978)→VMFA-531/EC-04(1981),
→1981年11月23日、アリゾナ州MCAS YUMAよりMASDC入り。
1985年1月22日、USAF(FP-005)となる→1985年4月23日、ユタ州HILL AFBでAGDR機となる。


今朝は雨風強く嵐のようですから、お出掛けの際は、どうぞお気をつけ下さい。
1974年5月21日(火曜日)9時43分、厚木R/W-19へVMFA-115のF-4B/152327,VE-7が着陸。
其れを仲間6人と撮影。パイロットネームはCAPT CHEATHAM/RIO, LT WINDLE.


いつもは離陸を撮る自分ですが、此の時は珍しくタキシング・ショットを撮影していました。
F-4B/152327の履歴。
VF-14/AB-101(1966〜1967)→VMFA-251/DW-3(1970)→VMFA-115/VE-7(1974~1975)→VMFA-351/MC-7(1975〜1976)→F-4N,
→VF-202/AF-2xx(1983)→1983年9月7日、テキサス州NAS DALLASで登録抹消。


1974年5月14日(火曜日)10時47分、厚木R/W-19へL/DするVMFA-115のF-4B/152263,VE-8.
パイロットネームはCAPT D.R.KNUTSON / CAPT M.A.NEWLIN.


VE-8は13時21分、岩国へ戻っています。 当日エンドに来たマニアは8人でした。
F-4B/152263の履歴。
VF-92/NG-204(1967)→VMFA-115/VE-2(1970)→VE-8→F-4N→VMFA-321/MG-7(1978〜1982),
1984年4月27日、テネシー州 NATTC MILLINGTONに於いて運用不可の裁定を受け退役。
アーカンザスのWEST メンフィスにあるVFW POST 5225で現在展示中。


途中、写友のSASAKIさん宅で彼をピックアップし向島〜取手と経由し8時35分に百里に到着。
片道約115qを4時間18分かけて、やっと辿り着き、この時点でかなりグロッキーな状態でした。
現在のマニアの方達は道路環境も整備され,このような苦労はせずに行けると思うので随分,楽だと思われます。
お目当ての空自機は、我々の到着前の8時から飛び始めて居り
F-4EJx8機、T-33Ax4機の離陸は間に合いませんでした。
この日は他に5人の厚木マニアが百里に来ていてビックリ仰天。
厚木は蛻の殻状態で、当日のトラフィックデータが抜け落ちたまま現在に至っています。
8時45分、百里R/W-03を編隊離陸する301空のF-4EJ/57-8357/87-8410,"ENJOY-01"FLIGHT.


301空が百里から新田原基地へ移動した事で同機も日向灘のR-533でACM訓練中の1997年7月4日、
CAPT MIYAZAKI/CAPT KIRIKAWA TAROU WSO搭乗のF-4EJ/87-8410号機はレフトターン中にコントロールを失い、
日向灘に墜落。2名のクルーは新田原のSARヘリに救助されましたが、機体は海中に没し失われました。


海軍機マニアの皆さんならVF-161機の一押しは、
何といってもバイセンF-4N/151433,NF-100ではないでしょうか?
このバイセンNF-100番は、そこそこ飛んではいるのですが、天気や飛行時間帯等、
なかなか良い撮影環境で撮影出来ず幾たびも苦い思いをさせられました。
そんな思いの中で、やっと巡って来た最高のチャンスが1976年5月11日(火曜日)に実現しました。
普段は絶対に登らないニッピ山で最も高い木の最上段まで攀じ登り撮影したのが此のショットです。
NF-100/110/113は10時丁度にT/Oし10時50分にL/D. 午後もペアを替えフライトしています。




F-4N/151433の履歴。
VF-32/AB-205(1970〜1971)→F-4N→VF-161/NF-100(1975〜1977)→1977年10月20日,厚木よりMASDC入り。
1990年4月、アリゾナ州TUCSONのAMCEP社で廃物処理。


昨日に続きましてバイセンNF-100の登場です。
1976年
5月11日(火曜日)10時に離陸したバイセンNF-100は10時50分、厚木R/W-19へ戻って来ました。
ところが、着陸直前に雲が湧き出し不安定な気象状態に変わってしまった事に加え、
肝心のバイセンNF-100の着陸高度が通常より高く、思い描いていた構図で撮れませんでした。
結局、バイセンNf-100をニッピ山で撮れたのは此の時1回だけで終わり、
悔いの残ろ結果となりました。




1979年5月24日(木曜日)12時46分、厚木R/W-01に降りたDC-251/252”NICKEL-21”は
16時24分、岩国へ向けR/W-19を離陸しましたが「厚木曇り」にやられてしまいました。
F-4J/153858の履歴。
VMFA-122/DC-252(1979)→F-4S→VF-121/NJ-161(1980)→VF-161/NF-103(1983)、
1984年11月25日、VF-151/NF-2xx機としてCV-41を離艦直後、太平洋上に墜落。


F-4J/153840の履歴。
VMFA-451/VM-2(19xx)→VMFA-122/DC-4(19xx)→VMFA-251/DW-7(1976)→VMFA-122/DC-253(1979),
→F-4S→VF-121/NJ-160(19xx)→VF-161/NF-102(1983)→1983年11月20日,NAS CUBI POINTから離陸後墜落。


F-4J/153856の履歴。
VF-33/AE-213(19xx)→VMFA-251/DW-6(1977)→VMFA-122/DC-255(1979)→F-4S→VF-301/ND-111(198x),
1988年11月、用途廃止。


14時28分、岩国へ向けR/W-19を離陸したところを仲間二人と撮影。 C/Sは”NICKEL-31”。
F-4J/153869の履歴。
VMFA-333/DN-136(1974)→VMFA-333/AJ-136(1975)→VMFA-122/DC-260(1979)→F-4S→VF-161/NF-104(1983),
1983年6月4日、新田原の西、90マイルで空母ミッドウェイへ着艦しようとしていたNF-104は
コントロールを崩して海上に落下。
クルー2名は着水寸前に緊急脱出したもののLTJG MARK MARTONEは行方不明となり,一人だけ救出。
その後、LTJG MARKは死亡者扱いとなっています。


1974年4月24日(水曜日)15時5分、厚木R/W-19へL/DするVMCJ-1のRF-4B/153093,RM-601.
同機は17時10分、岩国へ戻っています。 マニアは23人がエンドに集いました。


ブラックテール+イエローT/Cとして厚木に姿を現し、マニアを驚かせました。
RF-4B/153093の履歴。
VMCJ-1/RM-15(1971〜1973)→RM-601(1974)→RM-611(1975)→VMFP-3/RF-611(1976)→RF-12(1982),
1989年8月9日、AMARC入り。2008年11月19日、HVF WEST社でスクラップ。


強い南風にも拘らず、R/Wエンドまで滑走しAE誘導路に入って来てくれました。
ただ残念だったのは、強風にドラッグシュートが煽られ撓んでしまった事でした。
RF-4B/153091の履歴。
VMCJ-1/RM-17(1970〜1974)→RM-602(1974)→VMFP-3/RF-10(1984)→1989年8月2日、AMARC入り。
2008年11月18日、HVF WEST社でスクラップ。




この日はCVW-5機のフライオフがあり28機がCVA-41へ向かうのをマニア15人と共に撮影。
RF-4B/153105の履歴。
VMCJ-1/RM-603(1974〜1976)→VMFP-3/RF-21(1979)→1989年7月19日、MCAS EL TOROよりAMARC入り。
2008年11月21日、HVF WEST社でスクラップ。


1974年5月5日(日曜日)11時5分、厚木R/W-19へ降りるVMCJ-1のRF-4B/153109,RM-605.
外部増槽燃料タンク/ドロップタンク(マニア間では”増タン”と呼称)に描かれた
「RM」のマークが目を引きます。


RF-4B/153109の履歴。
VMCJ-1/RM-22(1972)→RM-604(1974)→RM-614(1975)→VMFP-3/RF-17(1977)→RF-25(1985~1987),
→RF-120(1987)→1987年10月19日,フィリピン,CROW VALLYでRF-4Bのフラッシュ・カートリッジが爆発.
二名のクルーは緊急脱出し無事救助されましたが機体は墜落し失われました。


マニアは入場準備〜途中の飛来で”虚”を突かれた格好となり悔しい撮り逃しとなりました。
公開最中の15時15分、NE/S-3Aに動きが見られた為、
公開終了直後の”追い出しショット”撮影を諦め、エンドに走り、撮ったのが此のショットです。
機首Mdx上部に描かれた「スーパーマン」マークはVS-29が1978年度に獲得したSAFETY AWARDを表したもの。
NE-700は厚木から嘉手納に向け離陸しましたが、撮影者は多過ぎてカウント出来ずでした。
S-3A/160507の履歴(国内ネットのデータでは"160588"と表記されていますが厚木飛来時のNE-700は、
"160578"でしたので、こちらを優先とします。)
S-3A→S-3B→2006年2月14日、カリフォルニア州NAS NORTH ISLANDからAMARC入り。
当時の所属はVS-41/NJ-733でした。


再びマリンコ・ホークのアップとなります。
なるべくSq/機種ごとに纏めてご紹介しようと努めているのですが上手く行きません。
1974年5月14日(火曜日)10時54分、厚木R/W-19へ着陸するVMA-311のA-4E/149989,WL-14.
WL-11も続けてL/Dしニッピのエプロンに駐機。エンドに集ったマニアは8人。
12時19分、2機のWLホークは岩国へと帰って行きました。
A-4E/149989の履歴。
VA-56/NF-4xx(1963〜1964)→VA-125/NJ-xxx(1964〜1965)→VA-155/NL-5xx(1965)→VA-86/AG-xx(1965),
→VA-56/NF-4xx(1965〜1966)→VA-192/NM-208(1966)→VMA-331/VL-xx(1967)→VMA-223/WP-xx(1967),
→VMA-121/VK-xx(1968)→VMA-223/WP-xx(1968〜1970)→VMA-211/CF-xx(1970)→VMA-311/WL-14(1972〜1975),
→VMA-131/QG-xx(1975)→QG-10(1976〜1979)→1979年8月26日、ペンシルベニア州HORSHAMの近くで
機体が突然爆発し墜落。パイロットは死亡し機体は失われました。


この日は他にED-00/WB-03/VE-9,13,14/CF-4/5等、多くの海兵隊機が撮れた日でした。
A-4E/151023の履歴。
VMA-332/EA-xx(1965〜1966)→VA-212/NP-2xx(1966〜1967)→VA-153/NL-3xx(1967〜1968),
→VA-125/NJ-xxx(1968)→VA-106/AK-2xx(1968)→HAMRON-12(1968)→VMA-311/WL-8(1968〜1973),
→VMA-211/CF-9(1973〜1975)→VC-5/UE-06(1976〜1977)→UE-02(1978〜1982)→UE-06(1983〜1992),
1992年3月、運用不可の裁定を受け退役


曇り空にも関わらずヒコーキ目当で600〜700人余りの観衆やマニアでごった返し
駐車スペースも無い状況で、写真撮影どころではない環境でした。
そんな最中の15時15分にショートカットでL/Dして来たのがVMA-211のA-4M/158429,CF-11,"WAKE-13"。
この厚木エンドの狂騒はCVW-5が岩国へ移駐するまで続き、マニア泣かせの時代となりました。
A-4M/158429の履歴。
VMA-214/WE-xx(1972〜1976)→VMA-211/CF-xx(1976)→VMA-311/WL-xx(1977〜1978),
→VMA-214/WE-xx(1978〜1979)→VMT-102/SC-22(1979〜1982)→VMA-311/WL-11(1982〜1983),
→VMA-211/CF-11(1983〜1984)→VMA-311/WL-xx(1984〜1986)→VMA-214/WE-xx(1986),
→VMA-311/WL-xx(1986〜1988)→1989年3月24日、MCAS YUMAよりAMARC入り。
1995年9月6日、A-4AR,FAA,#C-910号機としてアルゼンチン空軍GRUPO-5所属機となる。


1979年4月17日(火曜日)厚木R/W-19でT/Gトレーニングを行うNAF ATSUGIのベースフライト機 "NAVY-36436".
機首にはスマイルマークならぬ”口”が描かれており、下側の前歯が1本抜けているのが何ともご愛敬。
US-2B/136436の履歴。
NAS BARBERS POINT #436(1970)→NAF KADENA #436(1976)→NAF ATSUGI(1979),
1979年10月10日、厚木に於いて運用不可の裁定を受け退役。
尚、退役前後の厚木は施設工事のためR/Wクローズ中で
ラストフライト等のセレモニーは行えず、寂しい幕引きとなりました。


但し、HSL-35のT/C”TG"が書き込まれていないのが残念でした。
SH-2F/150152の履歴。
HC-7/VH-1x(196x)→SH-2F→HSL-74/NW-xxx(197x)→HSL-35/TG-32(19799)→USMC SAR→US Navy,
1994年1月19日、AMARC入り。2009年2月9日、RNZAF機。GROUND TRAINING WING(GTW)#0232G.


以上が当日の動きですが、厚木から百里に行く事が如何に大変か分かると思います。
写真は百里R/W-21へL/D後,No-5誘導路のアーミングエリアで
ドラッグシュートの回収待ちをする"JINGO-01"FLIGHT.


本日はHAMANOさんが今から56年前の1966年4月に伊丹で撮影した
VP-1”FLEET's FINEST"のSP-2H/135621,YB-12のショットをお届け致します。
着陸時のYB-12の垂直尾翼を良〜くご覧ください。
そうです。 無数の機銃掃射の弾痕が確認出来ると思います。
このSP-2H/135621,YB-12はベトナム戦争の激化に伴い1964年に続き2度目のベトナム派遣ミッションに
1966年2月13日、出発したうちの1機でした。
アメリカ,ワシントン州NAS WHIDBAY ISLANDから岩国へ派遣されていたVP-1は
更にDETとして南ベトナムNAF TAN SON NHUTに赴いた7機のネプチューンを派遣。
これらのネプチューンは1965年3月11日に始まったアメリカ軍と南ベトナム軍による軍事作戦、
"TASK FORCE-115",コードネーム「マーケットタイム作戦」に参加し
海上から北ベトナム軍への装備と弾薬の供給を阻止することを任務として
沿岸からパトロールを実施しました。
1966年4月13日,夜,ベトコンによる基地への攻撃が発生しVP-1の兵士一人が戦死,5人が負傷する損害を出し
7機のSP-2Hの内、5機がロケット弾や機銃掃射により被弾。
此のことで、VP-1はベトナム戦争で死傷者を出した最初の哨戒飛行隊となり
又、「マーケットタイム作戦」でSP-2Hネプチューンを運用した最後の部隊がVP-1でもありました。


SP-2H/135621の履歴。
1955年9月28日、BURBABK工場でUS NAVYに引き渡し。
1955年10月〜11月、NARF ALAMEDA
1955年〜1958年、VP-9に所属
1959年10月〜1963年9月、NAS WHIDBAY ISLANDのVP-2に所属(1960年1月よりP2V-7)
1963年9月〜1965年5月、NAS WHIDBAY ISLANDのVP-17に所属
1965年5月〜8月、VP-42に所属
1965年8月〜1967年1月、VP-1に所属
1967年1月〜1968年5月、NAS SEATTLEに所属
1968年5月〜6月、NARF NORFOLKに所属
1968年6月〜1969年2月、NAS SEATTLEに所属
1969年2月〜1970年1月、NARTU NAS OLATHE(7K-206)に所属
1970年1月7日、MASDC入り。
1976年6月29日、運用不可の裁定を受け退役。
就役より21年間に亘る歴史に幕を降ろしました。


ある意味、厚木R/W-19エンドでは滅多にお目に掛かれないい光景、「小学校全校児童の遠足」でした。
撮影は今から43年前の1979年5月22日(火曜日)ですから
写っている生徒さん達は、現在50歳代半ばの”中年”という事になります。




AV-8A159248は1975年〜1978年にCG-15、1979年はCG-5として運用後AV-8Cに改造されています。


この機体には飛行隊名の下に”DET-B"の文字が書き込まれていたのでDETが判明しましたが、
カムフラ塗装に黒文字で小さく書かれている為、判別するのに一苦労させられました。
加えて、機体自体が小さい事と離陸スピードがえらく早く、
暗室作業で目を悪くした自分には手強い相手でした。
AV-8A/159258は後にAV-8Cに改造され運用。1985年9月19日、AMARC入りしています。


今朝は妻からベランダ掃除を頼まれ、投稿時間が遅れてしまいました。
今日はEA-3B/142671の1973年から1981年までの8年間の姿をご紹介致します。
1973年3月22日(木曜日)テストフライトに向け厚木R/W-19へ向かうPR-6.
垂直尾翼にミサイルに乗ったスヌーピーと"HAPPINESS IS A CEASEFIRE JAN 28 1973"と
赤い文字で書き込まれていました。
同機は3月20日(火曜日)に降りていたのですが、機体の調子が悪く整備を受けていて、
その見極めに飛んだのが22日のフライトでした。
ところがPR-6は調子が戻らず、翌23日の18時45分にはアガナへ戻ってしまい、
厚木でのミッションに就けず、「スヌーピー入りPR-6」を再び撮る事は叶いませんでした。


此の時のR/W-19離陸が自分の撮ったEA-3Bで最も低い離陸となりました。
同機は16時45分,常連マニア3人が待ち受けるR/W-19へ帰って来ました。


最初のフライトプランではミクロネシアのYAP APでしたが、10時47分に行き先を変更しアガナとしました。
同機はVQ-1,DET-Bとして1980年9月10日から1981年5月5日まで空母レインジャー搭載/CVW-2所属機でした。
EA-3B/142671の履歴。
1958年10月、US NAVYに配属→NATC(1959)→VQ-1/PR-6(196x〜1973)→PR-06(1974〜197x),
→VQ-1/NK-xxx(1985)→VQ-1/PR-006(198x)→1989年4月28日、グアムのANDERSON AFBよりAMARC入り。
2005年1月11日、AMARCでスクラップ処理。


こちらはHAMANOさんが55年前の厚木で撮影したVA-192”GOLDEN DRAGONS"のA-4E/151084,NM-213ですが、
機首前方の点検扉が2カ所、開いたままの状態になっているのが目を引きます。
A-4E/151084の履歴。
VA-164/Nx(1964〜1965)→VA-56/NF-4xx(1965)→VA-155/NL-507(1965〜1966)→VA-192/NM-213(1966〜1967),
→VA-212/NP-xxx(1967)→VA-94/NF-403(1967〜1969)→VA-144/NF-5xx(1969)→VA-94/NF-406(1970),
→VC-1/UA-xx(1970〜1972)→VA-45/AU-605(1972〜1973)→RVAH-3/GJ-340(1973),
1973年10月21日、バージニア州NARF NORFOLKで運用不可の裁定を受け退役。


同機は此の日、嘉手納でパンク事故を起こし修理後に厚木に飛来したものでした。
NP-307は5月4日、再び嘉手納へ戻っています。
A-4F/154207の履歴。
VA-23/NM-3xx(1967〜1968)→VA-125/NJ-xxx(1968)→VA-22/NF-3xx(1968)→VA-22/NF-302(1969〜1971),
→VMA-214/WE-xx(1971〜1972)→VA-127/NJ-xxx(1972〜1973)→VA-212/NP-307(1973〜1975),
→VMA-142/MB-15(1975〜1988)→1988年3月25日、フロリダ州NAS CECIL FIELDからAMARC入り。
2004年11月30日、HVF WEST社でスクラップ。


NK-310と406は5月4日(日曜日)15時23分、厚木R/W-19を嘉手納に向け離陸して行きました。
NK-405はノーマークのA-7Eを引き連れ5月5日(月曜日)16時47分に同じく嘉手納に向けT/O.
A-7E/159648の履歴。
VA-146/NG-302(1977)→VA-27/NK-406(1979〜1980)→VA-93/NF-310(1980〜1982),
→VA-27/NL-401(1984〜1985)→NL-400(1986〜1987)→ギリシャ空軍に159648として採用。
然しマーキングは336Miraの160648と書かれ運用された。
2014年10月、用途廃止後、ARAOS ABで特別な塗装をされ展示中。


本日はHC-3"MERLINS"のCH-46Dを3枚ご紹介致します。
1972年4月19日(水曜日)12時、西側ヘリパッドへL/Dアプローチ中のSA-13.
厚木ではヒコーキと違いヘリはL/Dアプローチが一定しないので「撮りずらさ」No-1.
此の時も、あらぬ方向からアプローチされ「証拠写真」を撮るのが精いっぱいでした。
スポンソンにアメリカ製TV アニメ「原子家族フリントストーン」の題名が入っていました。
何故、このような言葉を入れたかの経緯は不明です。
CH-46D/154016の履歴。
HMM-264/EH-xx(02Jan1968)→HMM-261/EM-xx(21Apr1969)→NAS NorthIsland A&T(02Sep1969),
→H&MS-56(24Oct1969)→HMM-265/EP-xx(29Apr1970)→HMM-161/YR-xx(13Nov1970),
→NARF NorthIsland(23mar1971)→NAS NorthIsland A&T(10Apr1971)→HC-3/SA-13(16Aug1971〜1972),
→HMM-268/YQ-xx(19xx)→CH-46E→HMM-164/YT-13(1992〜1993)→HMM-268/YQ-03(12Sep1994〜2013),


早速、CAMP ZAMAでT/G訓練を実施。
4月17日(水曜日)はSA-11が再びCAMP ZAMAでT/G訓練をしましたが
2度ともCAMPZAMAへ向かっている途中で厚木に引き返されてしまい撮影出来ませんでした。
ご覧頂いているSA-11のショットは厚木R/W-19でT/G中のものですが、
機首正面にパーソナルマーキングが描かれていましたが詳細は不明。
CAMP ZAMAでならバッチリ撮れた筈で、残念な事をしました。
CH-46D/154832の履歴。
HMM-264/EH-xx(07Jun1968)→HMMT-302/UT-xx(02Feb1969)→HMM-161/YR-xx,COSA(22Sep1969),
→H&MS-16/WW-xx(07Nov1969)→NARF NorthIsland(11Apr1972)→HC-3/SA-11(13Dec1972〜1973),
→FAWPRA Atsugi(20Nov1974)→NAS CubiPoint-xx(24 Jan1975)→CH-46E(11Apr1985),
→HMM-165/YW-00(Apr2007)→HMM-161/YR-xx→HMM-364/PF-00,
"Partnership of the Americas 2010"によりC-17でチリのAguayoに供与される。


AE-35 USS KISKA搭載、HC-3,DET-111のCH-46D/153338,SA-17を常連マニア9人と撮影。
この日は退役で帰国真近のRF-8G(NF-604/601)狙いで連日通い詰めていた此の9人のメンバーでしたが、
お目当ての”エイト・ジー”は「お墓」のDWでUターンしてしまい、目論見は成就しませんでした。
CH-46D/153338の履歴。
H&MS-26,SubUnit-1(16Dec1966)→HMM-161/YR-xx(31Dec1966)→HMM-261/EM-xx(20Dec1967),
→HMM-264/EH-xx(12Mar1969)→HMMT-402/BR-xx(09Jan1970)→NAS NorthIsland A&T(15Oct1970),
→H&MS-36,COSA/WX-xx(31,Oct1970)→HMM-164/YT-xx(04Dec1970)→H&MS-36/WX-xx(02Mar1971),
→H&MS-56,COSA(23Apr1971)→H&MS-16,CRAA/WW-xx(16Jul1971)→HC-3/SA-13(04Aur1971)
→SA-17(1974)→2002年6月19日、AMARC入り。6月20日、運用不可の裁定を受け退役。
2008年7月1日、現在、AMARC在籍中。


1974年5月29日(水曜日)10時25分、厚木R/W-19へ着陸するVMA-211のCF-01.
パイロットネームはVMA-211のCO,LT COL F.C.REGAN JR.


機首先端に旗を持ったカンガルーのようなものが描かれていましたが
オーストラリア辺りに演習に出掛けた際のものでしょうか?
CF-01と続けて降りて来たCF-7はニッピのエプロンに駐機。
A-4E/151167の履歴。
VA-23/NE-335(1965〜1967)→VA-192/NM-2xx(1967)→VA-164/AH-4xx(1967〜1968),
→VMA-311/WL-14(1968〜1970)→VMA-211/CF-16(1970)→CF-01(1973〜1974)、
→VA-43/AD-326(1975)→AD-3xx(1977〜1978)→AD-322(1979〜1981)→AD-3xx(1982〜1983),
→AD-326(1984〜1988)→AD-3xx(1989〜1991)→AD-328(1992〜1993)→1993年10月4日、AMARC入り。
2002年3月20日、カリフォルニア州CHINOへ移動。




35oでは容易い「斜め前+送り」の合わせ技も6x7版では難しく苦労させられました。
ブロニーフィルムを巻き上げるには手指が相当頑丈でないと素早くは巻けず、
A-4のような小型機の場合「合わせ技」は端から諦め「一発勝負」に徹しました。
A-4E/151052の履歴。
VA-163/AH-353(1964〜1965)→VMA-311/WL-xx(1966)→VA-81/AJ-405(1966〜1967),
→VA-94/NF-4xx(1967〜1968)→VA-125/NJ-516(1968)→VA-106/AK-216(1968),
→H&MS-12/WA-xx(1969)→VMA-211/CF-7(1970〜1973)→CF-00(1973〜1974)→CF-7(1974),
1974年11月14日、NAS CUBI POINT 離陸後に墜落。


1974年4月12日(金曜日)9時7分,厚木R/W-01を離陸し岩国へ帰るVMA-311のA-4E/151078,WL-2.
同機は前日、4月11日の11時55分に僚機WL-16と共に降りていたものでした。
此の時は弱い南風が吹いていたものの、運用滑走路はR/W-01でしたが、
R/W-19に変わるのは時間の問題と予めに分かっていたマニア6人は、
全員19側にスタンバイ中01側から降りてしまったのがWL-2/16でした。
光線状態は最悪の時間帯に降りては来たものの、「撮り逃し」たという事実はショックでしたし、
何より、着陸直後にR/Wチェンジし19になったのも癪の種でした。
A-4E/151078の履歴。
A4D-5N/取り消される→A4D-5(A-4E)→VMA-223/WP-xx(1964)→VMA-121/VK-xx(1965),
→VMA-211/CF-xx(1966)→WL-xxとして岩国よりCHU LAIへ移動(Jan12.1967),
→VMA-223/WP-xx(Mar1.1967)→CF-xx(Dec.1967)→WL-xx(1969)→岩国から YUMAへ移動(Mar1972),
→YUMAからBIEN HOAへ派遣(May1972)→WL-xxとしてBIEN HOAから岩国へ移動(1973)→WL-2(1974(),
→VMA-131/QG-xx(1975)→H&MS-49/MAG-49(1979〜1984)→VC-5/UE-xx(1988),
1992年4月、厚木で運用不可の裁定を受け退役。


パイロットネームはLT DON MITCHELL.
A-4E/151036の履歴。
VMA-324/DX-xx(1964)→VMA-331/VL-xx(1964〜1966)→VA-93/Nx-xxx(1966〜1967),
VA-153/NL-311(1967〜1968)→VA-144/Nx-xxx(1968)→WL-22(1968〜1970)→CF-xx(1970),
→CF-01(1972)→WL-16(1973〜1974)→WL-xx(1975)→VMA-131/QG-xx(1975〜1977)→QG-07(1978),
→QG-xx(1979〜1980)→QG-09(1981)→VC-1/UA-xx(1987〜1992)→1992年運用不可の裁定を受ける。
NAS BARBERS POINTの"HAWAII MUSEUM OF FLYING"で展示機を経てLIHUEの
"KAUAI VETERAN's CENTERで展示中。


そのままT/Gを4回実施し、11時53分、45人のマニアと一緒に着陸を撮影。
パイロットネームはCAPT O'ROUNE R.Jという珍しい名前のパイロットでした。
此の時、多くの着陸ショットが撮れたA-4E/151059号機でしたが、
ご覧のように所属部隊名の最初の数字が消されており、
部隊移動が迫っていることを暗示する動きでした。
この予想は的中し,その後,151059号機が日本の土を踏むことはなく、
同機はアメリカ東海岸、ニューイングランドにあるマサチューセッツ州の
NAS SOUTH WAYMOUTH/VMA-322に移動して行きました。
A-4E/151059の履歴。
VMA-223/WP-1(1964〜1965)→VMA-121/VK-xx(1965〜1966)→VA-212/NP-2xx(1966),
→WL-xx(1966)→VA-192/NM-203(1967)→NARF PENSACOLA(Sep8,1972)→WL-7(1973〜1974),
→VMA-332/QR-59(1975〜1983)→VC-13/UX-22(1983〜1988)→VF-126/NJ-632(1988〜1992),
→VFA-127/NJ-732(1992)→1992年、運用不可の裁定を受け退役。


以前、No-4563でご紹介しましたWL-14と共に厚木に飛来した時のショット。
パイロットネームはCAPT SANDBERG J.R.
A-4E/151038の履歴。
VMA-324/DX-xx(1964)→VMA-331/AJ-509(1964〜1966)→VMA-332/EA-3(1966〜1967),
→VA-93/NF-306(1967)→WL-11(1967〜1975)→VMA-131/QG-06(1975〜1987),
→VF-45/AD-616(1987〜1990)→AD-16,DET-KEY WEST(1991〜1994)→1994年6月22日、AMARC入り。
2001年7月17日、カリフォルニア州CHINOの"YANKS AIR MUSEUM"で展示中。


今日は久しぶりに、当BBSの名称でもある"CHECKERTAILS"のご紹介です。
1981年4月10日(金曜日)18時、雨の厚木R/W-01に降りた3機のUEは
翌4月11日(土曜日)11時,UE-03を筆頭に韓国,KUNSAN ABに向けR/W-19を離陸して行きました。
最初に上がって来たのはVC-5のTA-4J/155115,UE-03."CHECKER-03".
パイロットネームはCDR "KILL"ROBB.
彼は3年後の1984年にVC-5の第16代COとなるCDR KILLDEER ROBB JR其の人でした。
TA-4J/155115の履歴。
VT-21/3E-xxx(1969〜1973)→VT-24/3K-xxx(1977〜1988)→VT-25/3J-xxx(1973〜1974),
→UE-01(1974〜1976)→UE-03(1977〜1988)→UE-16(1989〜1990)→UE-xx(1991〜1992),
→カリフォルニア州NAS MIRAMERのNWS,#-xx(1992〜1994)→1994年5月24日、AMARC入り。
2001年6月7日、US ARMY # XB-0003として登録。
2003年3月15日MCAS MIRAMERにおいて、国際基礎練習システム機として活用。
その後、アリゾナ州PHOENIX,WILLIAMS GATEWAY APで登録抹消。


続けて"CHECKER-03" 'twoことA-4E/151178/UE-14が同時刻に離陸。
A-4E/151178の履歴。
VA-86/AG-412(1964〜1966)→AG-406(1966)→VA-83/AJ-308(1966〜1967),
→VA-106/AK-xxx(1967〜1968)→HAMRON-12(1968)→VA-106/AK-210(1968〜1969),
→VMA-223/WP-xx(1969〜1970)→VMA-211/CF-xx(1970)→VA-152/AJ-515(1970),
→UE-xx(1970〜1974)→VA-127/NJ-xxx(1974〜1975)→VC-1/UA-xx(1975〜1978),
→UE-14(1978〜1987)→1987年11月15日、エンジンから出火し墜落。


パイロットネームはLCDR CHARLIE McDANIEL.
A-4E/151162の履歴。
VA-23/NE-3xx(1964〜1965)→VA-164/AH-4xx(1965)→VA-23/NE-336(1965〜1967),
→VA-94/NF-410(1967〜1970)→VC-1/UA-xx(1970〜1972)→UE-02(1972〜1975),
→UE-04(1976〜1977)→UE-01(1977)→UE-04(1978〜1989),
1989年7月19日、フィリピン、SUBIC BAY 近くの山に墜落し、パイロット死亡。


1975年4月15日(火曜日)14時30分に離陸したCF-5は15時50分、R/W-19へ着陸。
それを仲間3人で撮影。
A-4E/151095の履歴。
VA-81/AJ-4xx(1964)→AJ-410(1966〜1967)→VA-83/AJ-3xx(1967)→VA-106/AK-2xx(1967〜1968),
VMA-223/WP-xx(1968〜1970)→CF-xx(1970)→WL-7(1970〜1971)→WL-xx(1972〜1973),
CF-26(1973)→CF-5(1975)→WL-xx(1975)→VMA-131/QG-xx(1976)→VMA-322/QR-61(1977〜1979),
→QR-xx(1980〜1981)→FWS,#-55(1987〜1988)→UE-03(1990)→UE-xx(1991〜1992),
1992年に厚木で退役→2010年、徳島のPENIE MEDICAL CENTERでBLUE ANGELS,#-8の塗装を施され
屋外展示されていますが、同機は現役中、BAに在籍した事は有りませんでした。


後方にはVQ-1のEP-3E/150501が見えます。
他にNAF ATSUGIのUS-2A/133306等をMACH3さんを含む仲間5人と撮りましたが、
正式にに展示された航空機は無く、現在に至るまでAFDだったのかも不明のままです。
A-6B/155630の履歴。
VA-85/NK-517(1969〜1970)→VA-165/NG-507(1970)→VA-52/NH-513(1971),
→VA-115/NF-504(1973〜1976)→NF-534(1977)→A-6E→VA-95/NH-505(1993〜1995),
→1995年10月30日、AMARC入り→2015年10月〜11月の間にAMARCを出て処理される。


二日後の4月3日(金曜日)日没直前の17時26分、ハワイ、NAS BARBERS POINTに向け
厚木R/W-19を離陸し10時間に及ぶフライトに旅立って行きました。
このLF-3号機の離陸が、自分のマニア人生で唯一度のVP-16機との出会いとなり、
再び、日本のマニアがVP-16,CO機と嘉手納で出会うまでには30年の月日を要すことになり
丹沢の山影へ太陽が没するかどうかを気にしながら撮った
LF-3の離陸ショット時の事が今も忘れられません。
P-3C/158913の履歴。
P-3C IIIR→VP-40/QE-913(1998)→2004年1月8日、AMARC入り。
2009年、ROC(REPUBLIC OF CHINA)NAVY,#331として移籍。
その後、ROC AF,439thCOMPOSITE AWで運用中。


1983年4月3日(日曜日)12時、韓国、OSAN ABに向かう為、南のカドを回るND-632.
当日はAbleDogさんを含むマニア49人がND/KA-3B狙いで厚木を訪れていて
南のカドは撮影の「場所取り」で押し合いへし合いの大混雑で大変な騒ぎでした。
其れというのも、フェンス内側に植えられた目隠し用の樹木が成長し
撮影出来る場所が限られ”どけ!”、”何〜!”と罵声が飛び交った為でした。
こういう時は、声の大きい者の勝ちで、小心者は蹴散らされるのが常でした。


このように前後のショットを選択すると、「真横」のショットは樹木に邪魔され撮れず、
逆に「真横のショット」を選択すると其の前後は諦めざるを得ない状態でした。
KA-3B/142664の履歴。
1959年5月,US NAVYに配属→VAH-7/GL-404(1959)→VAH-9/AC-510(1960)→VAH-11/AB-602(1964),
→VAH-7(1965)→VAH-4/ZB-612(1967)→KA-3B(Jul,1967)→VAH-4/ZB-6(1967)→VAH-4/AH-612(1967),
→EKA-3B(Feb.1968)→VAQ-130/NF-616(1970)→VAQ-135/NH-6xx(1972)→VAQ-135/TR-52(1973),
→VAQ-130/TR-30(1974)→1974年5月3日、MASDC入り→1974年10月22日、NARF ALAMEDA入り、
VAK-308/ND-520号機として現役復帰→ND-632(1978〜1983)→VAK-208/AF-613(1983),
1983年、NAS ALAMEDAで廃物処理される。


当日はマニア27人がエンドに来ていました。
NE-614は1週間後の4月21日、厚木を離れましたが、一度も訓練飛行せずでした。
EKA-3B/142646の履歴。
1958年9月,US NAVYに配属→VAH-2/NL-908(1961)→KA-3B→EKA-3B(Sep.1968)→VAQ-131/AB-613(1968),
→VAQ-135/NL-613(1971)→VAQ-135/AJ-61x(1971)→VAQ-130/NL-613(1973)→VAQ-130/NE-614(1973),
→1973年11月19日、カリフォルニア州NAS ALAMEDAからMASDC入り。
1994年11月22日、アリゾナ州TUCSONのNATIONAL AIRCRAFT社の所有機となる。


1975年4月20日(日曜日)7時45分,横田基地西側エプロンに駐機していたVQ-3のEC-130Q/156171,TC-171が
R/Wを横切って南側国有地前の誘導路に入って来ました。


この時点で航空機の両側面を一気に撮影。
厚木ではフライト・キャンセルでエプロンに引き返す以外は撮影不可能ですから、
「両側面一気撮り」の出来る横田は魅力的なところでした。


スキャナーを使っていた時には不鮮明で判らなかったものがクリアーに判別出来るようになり、
このTC-171の機首に描かれた「ブルーのネズミ」の発見も「デジタイズ」の賜物でした。
因みに、此の日は厚木のマニア5人とフェンスにへばり付いて撮影しましたが、
その他に4人の厚木マニアが基地のエプロンでF-4D/WPx2,AV−8A/WFx2等を撮影していました。


1967年5月21日の厚木三軍記念日で展示されたVA-196”MAIN BATTERY" のA-6A/152626,NK-401.
撮影は川崎のY.TAKAHASHIさん。既にトーイング・バーが取り付けられ
空母コンステレーションへのフライオフの準備がされ、移動寸前のショットです。
同機は其の後KA-6Dに改造されAG-521→AB-515→AG-517→NG-515と部隊移動し
ネバダ州NAS FALLONでグランド・トレーナーとなっています。


其れはVA-115”ARABS"のA-6A/155703号機でしたが、Mdxが尋常ではありませんでした。
”NF-508”,"8"??? 有り得ないMdxを付けたVA-115機だったのです!
艦載機では通常は、末尾の数字に"8"と"9"は使用しない(出来ない)事になっているのは
皆さん、ご存知の事と思います。
ここのところの経緯は物知り上手のMACH3さんにお任せです。
NF-508の厚木飛来当時、VA-115は本国で厚木移駐準備の真っ最中で、
塗装も一新し”ブラックテール”でしたから、"旧塗装のNF-508”は
キュービーポイント辺りに永年打ち置かれていたのではないかと推測します。
そのため、態と"使う事の出来ない機体"を揶揄して"508"と付けたのではないかと思うのですが、
皆さんは、どのように思われるでしょう?
4月12日(木曜日)ニッピを出てテストフライトに飛び立ったNF-508は
厚木R/W-19に降りようとしましたが強い南風に煽られT/Gとなり、
再度L/Dを試みましたがウェーブ・オフ。
3度目に,やっと着陸することができ、それをMACH3さんを含む常連5人と撮影。
外来で来たMCAS IWAKUNIのC-117Dは強風で降りられず横田へダイバートする程の強風でした。


此の時は仲間4人との撮影でした。
A-6A/155703の履歴。
1969年、US NAVYに納入/配備→VMA(AW)-225/CE-03(1970)→VA-34/AB-503(1970〜1971),
→VA-115/NF-508(1973)→A-6E→VA-35/AJ-505(1980)→AJ-512(1980〜1981),
→VA-65/AG-505(1983〜1985)→VA-176/AE-502(1986)→VA-36/AJ-535(1990〜1991),
→VA-42/AD-501(1992)→AD-503(1992〜1993)→VA-205/AF-503(1993),
1993年11月16日、AMARC入り。
2015年5月21日、HVF WEST社でスクラップ。


1977年5月12日(木曜日)11時5分、厚木R/W-19へVMA(AW)-332/EAのA-6E/159178がL/D.
この日は大変良い天気でしたが、ニッピ山から見える"ROYAL OAK-01"には陽が当たりませんでした。
相鉄線際に居られたダブルタンゴさんの場所では陽が当たっていたのでしょうか?
EAの隊長機、R/W-19午前中の降りは此の時だけでしたので、気になるところです。
L/Dで曇った為、何とか挽回しようとニッピ山で粘りましたが時間は刻々と過ぎ、
EA-01が出て来たのは11時30分近く、光線状態は既に最悪状態でしたが、我慢しながら撮影。


CO名が書かれていない以外は、ほぼ完璧なマーキングでしたので残念な出会いでした。
A-6E/159178の履歴。
1974年,US NAVYへ配備→VA-128/NJ-xxx(1974)→VA-52/NH-501(1975)→VMA(AW)-224/WK-01(1975〜1976),
→VMA(AW)-332/EA-01(1976〜1977)→EA-351(1979〜1980)→VA-176/AE-500(1983〜1985),
→VA-34/AG-505(1994)→1995年12月21日、AMARC入り。
2016年1月13日、HVF WEST社でスクラップ。




当日エンドに来たマニアは2人と少なかったのは横須賀入港中の空母コーラルシーの艦載機が
ヘリ以外居なかった事が影響していました。
CV-43は5月3日、横須賀を出港。2機のSH-3G/NL-722&723がフライオフして終わっています。
A-6E/155585の履歴。
1968年、US NAVYに配備→VA-65/NH-505(1968〜1969)→VA-115/NF-501(1971),
→VMA(AW)-533/ED-5(1973〜1974)→A-6E→VMA(AW)-332/EA-05(1976〜1977)
→VMA(AW)-224/WK-06(1981)→VA-128/NJ-816(1987)→VA-304/ND-4xx(1991〜1995),
1995年4月、フロリダ州SAINT AUGUSTINE のGRUMMAN社で廃物処理後、大西洋に漁礁として水没。


1980年月7日(水曜日)10時1分,厚木R/W-01に降りるVMA(AW)-533のA-6E/159904,ED-02.
01エンドにはマニア11人が来ていました。
着陸後ED-02は修理か整備の為か西側エプロンのAMDラインに駐機。
13時55分、"BRAVE-00"は岩国へ向けT/O.
A-6E/159904の履歴。
1976年、US NAVYに配備→ED-02(1980)→ED-04(1981〜1982)→VA-65/AJ-504(1992),
→VA-36/AJ-504(1993)→VA-95/NH-510(1993〜1994)→1994年4月、バージニア州の
NAS NORFOLKで事故により登録抹消。


A-6E/155707の履歴。
1969年、US NAVYに配備→VMA(AW)-225/CE-07(1969)→VA-85/AA-501(1971)→A-6E,
→VMA(AW)-533/ED-10(1972〜1975)→VA-34/AB-511(1977〜1981)→VA-165/NG-500(1981〜1982),
→VMA(AW)-224/WK-07(1984)→VA-145/NE-507(1992〜1993)→VA-115/NF-500(1994〜1995),
1995年4月、運用不可の裁定を受け退役。


撮影は友人の松野隆司さん。
原版はフィルムではなく手札のカラー写真をスキャンしたものです。
経年劣化が激しく、殆んど色が抜け落ちたところからの復元なので、
本来の色は再現できませんでしたが、雰囲気はお分かり頂けると思います。
厚木の仲間(中島、松野、小島、澤野各氏)と自分を加えた5人で製作した会報「NAC」の
VOL-2の中にあったショットを今回”初公開”しました。
撮影者の松野さん、そして小島さんも所在不明で連絡が付きません。
このCTBBSを観ていてくれたなら、是非、連絡してほしいものです。
ところで。初めにCVA-43を「一般公開」したと書きましたが、
厳密には艦内格納庫のみで、写真撮影禁止となっていました。
空母コーラルシーはベトナム戦争の最中で”お祭りムード”は一切なく、
中島さんが当直将校と掛け合って、何とか15分だけ甲板上での撮影が許可されたものでした。
A-&A/154136の履歴。
1968年、US NAVYに配備→VA-52/NL-404(1968〜1969)→VA-95/NL-503(1970),
→VA-115/NF-507(1971)→VA-95/NL-503(1973)→VA-196/Nk-506(1974〜1975)→A-6E,
→VA-85/AA-504(1985〜1986)→VA-85/AC-554(1983)→VA-85/AA-504(1985〜1986),
→VMA(AW)-332/EA-503(1991)→VMA(AW)-224/WK-503(1991〜1992)→EA-510(1993),
1993年6月11日、AMARC入り。
2014年10月14日、HVF WEST社でスクラップ。


1984年5月11日(金曜日)13時5分、"LUCIFER-11"が厚木R/W-19でT/G訓練中、
滑走路延長線上,相鉄線トンネ際,フェンスの内側から火の手が上がり黒煙が立ち昇りました。
いつもは常連マニアが早めに火事を見つけ消火するのですが、
此の時は火をつけた若いマニアは此方に助けを求めず逃げた為、対応が遅れ、
火がトンネルの土手のかなり広い面積を黒焦げとなる”大火事”に拡大。
緊急出動した513FS/VX-51のHSS-2B/8078,"MIGHTY-78"が上空から現場を確認。
”飛行場から北西300mのところで火災発生。消防車の出動を要請せよ”と
英語で管制塔に連絡を送り、間もなく海自ではなく市の消防車と警察車両が駆けつけ、
我々も警察に職務質問を受け経緯を説明。
この火事以降、トンネルフェンス内は「物理的」に人の立ち入りが出来ない構造となり、
永年慣れ親しんできたトンネル上での”外来機待ち&基地内観察”の特等席が消失したのです。


われわれの世代では絶対に起こさなかった”火事”を起こしてしまう次世代のマニア達に
男としての”劣化”を感じ、情けない気持ちになり、時代の移ろいを感じた事件でした。
警察には言いませんでしたが、実は火事の犯人が誰だったのかは判っていたのです。
自分の手に負えないと分かった時点で直ぐに我々に報告してほしかった。
江戸の昔、火事を出したら「磔獄門」の極刑でした。
逃げて済む問題ではないのです。
他人に大きな迷惑がかかる事を肝に銘じ、甘んじて罰を受けるのが一人前の男です。
皆そうして大人になって行くわけで、結果的に幸せになれるのです。
アノ君が、幸せな人生を送っていることを願うばかりです。


VP-6/P-3CとVP-3/P-2Jの新旧対潜機コンビを写したショット。
P-3C-III/161269,5003号機は2011年10月、運用不可となり、後に厚木で解体されています。


1972年4月2日(日曜日)横須賀で空母コンステレーションが一般公開されました。
天候に恵まれ多くの観客が押し寄せましたが、そつのない「ロープ張り」が功を奏し
マニア目線では「撮り易い」展示で助かりました。
撮影出来たNG-111は、横須賀公開から1ヵ月後の5月10日、
北ベトナム上空の空中戦でMig-17を撃墜し”Mig Killer”となっています。


スプリッターベーンにミッションC/Sなのか"DEAMMA RAE"と文字が書かれていました。
F-4J/155794の履歴。
NG-206(1970)→NG-204(1972〜1973)→NG-214(1973〜1974)→VF-121/NJ-100(1975),
→F-4S→DB-06(1984)→1988年、8月28日、AMARC入り。
2008年6月13日HVF WEST社でスクラップ。


前年のバイセン塗装が残っていたのか、元々、部隊の塗装であったのか良く分りませんが、
US NAVY機好きにはタマラナイ塗装ですね。
F-4J/155869の履歴。
VF-102/AG-102(1975)→VF-101/AD-101(1976〜1977)→AD-112(1977)→VF-154/NK-103(1983),
→F-4S→VMFA-321/MG-06(1987)→1989年4月22日,ノースカロライナ州MCAS CHERRY POINTで登録抹消。


今回はVF-161のCAG機のスプリットベーンに書かれた「航空隊長」の特集です。
一般的にI.N等、メディアで紹介されている「航空隊長」の機体は
垂直尾翼ラダーが「稲妻」形の色分けがされたものが殆んどです。
その機体が初めて厚木で確認されたのは1977年2月28日(月曜日)に行われた
CVW-5機による厚木フライインが最初でした。
丁度、正午過ぎのR/W-01降りだったので、映像的には不満でしたが、
目敏いベテランマニアの一人が”スプリットベーンに”漢字”が書いてあったと叫んだのです。
それを聞いて一同ざわめき立ち、真偽のほどを確認したかったのですが
デジタル時代の今なら、画像を直ぐに見られますが、其の時はアナログ全盛期のため、
フィルムが現像から上がってくるまで暫く待たなければなりませんでした。






NF-100/151433は3月〜5月の間、そこそこフライトしたものの、R/W-19運用時の離着陸ショットで
順光下での撮影には全く遭遇せず、自分が満足できるようなショットは撮れずに終わりました。


4月から厚木に飛来し始めたF-4Jへ順次機種改変が行われていきました。
画像は訓練から帰り、R/W-19へL/D後、南のカドの誘導路(AE)へ入って来た(NF)-100.
F-4N/151433号機は8月中に厚木を離れ本国に戻りましたが、
正確な日にちは、CVW-15/9機の撮影に追われメモる事が出来ず残念な事をしました。
F-4Nから新しくF-4JになったNF-100/153866を最初に確認したのは9月21日(水曜日)で
東側、NAVYのペイントショップ・ハンガーから曳き出され、西側のCVW-5フライトラインに
並んだ時が最初でした。


1977年1月12日(水曜日)12時25分、厚木R/W-01をCV-41に向けてフライオフするNF-100.
1976年のいつ頃から「バイセン航空隊長機」が存在したのかについては未だ調査していませんが
1976年後半から1977年初頭にかけてNF-100はレーダーを始めとする電子機器に問題が生じていたようで
NF-100は永らく「ハンガークイーン」状態が続いていました。
何れにせよ「バイセン航空隊長機」は通常の機体より低い稼働率であったことは確かですし、
最も撮って置きたかった機体が”ワンチャンス”で終わっのは残念無念な事でした。
今回のテーマの性格上「今月のテーマ」から逸脱する月が出てしまった事をお許し下さい。
F-4N/151433の履歴。
VF-32/AB-205(1970〜1971)→F-4N→VF-161/NF-100(1976〜1977)→1977年10月20日、MASDC入り。
1987年2月14日、NF-112としてMASDCで骨組み状態。
1990年AMCEP Incに移動後、廃物処理され終わる。


こうして毎朝CTBBSにアップしている写真とコメントは
前日に用意して置き、当日の朝、最終チェックの後、投稿しています。
昨日の午後は病院へ定期通院の予約日だったのですが、
珍しく患者はガラガラで、「これなら早く診察も終わりそう」とニッコリ。
案の定、予約時間通りに診察を終え会計に行くと、ナ、何と”大混雑”!
病院のコンピューター・システムがダウンして会計が出来なくなっいていたのでした!
という訳で、疲労困憊で家に辿り着いた為、
今回の投稿写真のデータ等については省略させてください。
1976年5月12日(水曜日)15時0分にR/W-19へ降りた!MOTION-52"FLIGHT(WT-8/9)は
17時20分、R/W-19を岩国へ向けT/O.
その内のWT-8は塗装途中のようで「白色尾翼」で飛来。
昔飛来した”W.WT"を彷彿とさせましたが、結局、普通の塗装を施され運用されています。


此の時がVF-51の”新塗装”機としての厚木初飛来だった為、何処の部隊か分からず、茫然。。
後にVF-51と判明し、皆が口にした言葉は一つ、”旧塗装の方を撮りたかった!!”でした。




厚木のマニアなら、皆、大好きなのが紅白のTA-4J/UEではないでしょうか?
アメリカ本国では何の変哲もないVT塗装のTA-4Jですが、
此処、日本に於いては”超”が付くほど珍しい塗装であり、J型/TA-4も同様でした。
但し、この塗装のままVC-5機としてフライトした期間は短く、
暫くすると2機とも”通常”塗装になってしまいました。
1975年5月27日(火曜日)午後に降りた2機のTA-4Jは
翌28日の10時18分、ミッションに向け厚木R/W-19を離陸。
此の時、離陸を撮るかタキシングを撮るか迷いましたが
「厚木」と分かるように撮るのが先決と思いニッピ山から撮影する事としました。
若干の「陽炎」が出ていましたが許容範囲内で済み、先ずは一安心。


TA-4J/155117の履歴。
VT-21/3E-xxx(1969)→VT-7/2K-7xx(1973)→VC-5/UE-02(1974〜1981)→UE-03(1981〜1988),
→UE-14(1989〜1992)→1992年9月30日、VF-126/NJ-xxxとしてAMARC入り。
尚、他に3機のTA-4J/158454/158476/158518のUEが存在しますが
自分は今回アップした2機の他は通常塗装で”黒鼻”のTA-4J/158476,UE-14の1機があるだけです。
又、TA-4J/158476,UE-15は1985年5月24日、フィリピン、SUBIC BAYで墜落事故を起こし
パイロットも死亡し、機体は海中に没し失われています。




昨日、妻から「草むしり」を頼まれ1時間15分ほど作業をしました。
その結果、腰痛が発症し動けなくなりCTBBS への投稿が出来なくなってしまいました。
今迄の経験上、腰痛の回復には少なくても1週間程度かかると思われます。
椅子に腰かける姿勢が腰には最も悪い為、
CTBBSのコメントは最小限になりますが、ご容赦ください。
以前アップしたNK-507の映像ですが違うコマでスキャンではなく「デジタイズ」です。
NK-507,厚木飛来の補足情報です。
1980年5月9日(金曜日)曇りの厚木R/W-01へKA-6D/149952,NK-521と共にL/D.
NK-521はVA-115への補充機で、後にNF-522となっています。
NK-507は5月12日(月曜日)NK-521のパイロットを乗せ嘉手納経由でCV=43へ戻って行きました。


但しパイロットネームは珍しくフルネームでCAG名が書かれていました。
CDR LOUIS ROBERT CANEPA CAGは1988年"TAILHOOKER OF THE YEAR AWARD"の受賞者でもある
優秀なパイロットでしたが、2007年7月25日に永眠しています。


1975年4月1日(火曜日)12時5分,僚機NF-210と共に空母ミッドウェイに向けフライオフするNF-200.
この日28機のCVW-5機が離陸し、それをマニア15人が撮影していました。
ご覧のように、厚木の正午前後は光線状態が悪く、
それなら地上部を入れて撮影しようと考えニッピ山で撮影してみました。




撮影時だけ陽が陰ってしまったのには閉口しました。
NF-200は韓国OSAN ABへと10時17分T/O. この日は29機のCVW-5機がフライトしマニア8人が撮影。
因みにF-4J/153798号機は1982年10月8日、F-4S/DR-02で運用中、フィリピンで墜落し登録抹消。


投稿用コメントの下書きで「日にち」を間違って記入し
そのことに投稿直前で気が付き「日にち」の確認に手間取ったのが原因でした。
然も、投稿用写真も間違ったデータを打ち込んでいたため廃棄し、
また、最初から作り直すという為体でした。
事程左様に、「ヒコーキ写真」に於いてデータ、特に撮影年月日は重要で
下書きの数字「9」を「4」と読み間違えしたのが最大のミスであり、
自分が書いた数字を本人が見まちがえるほど乱筆なのは情けない話です。
では、一日遅れの話題をスタート、今日はP-3Bを3枚アップ致します。
1983年4月2日(土曜日)13時24分、厚木R/W-19に降りていたVP-90”LIONS"のP3B/153438,LX-3は
翌4月3日(日曜日)8時50分、イリノイ州NAS GLENVIEWから海外派遣されている
フィリピンのNAS CUBI POINTに向けR/W-01を離陸。
LX-3が降りた4月2日はNH-500とNDのKA-3B狙いでマニア60人が大挙エンドに詰めかけて居り、
翌日も49人が集まるなど「喧噪」の中での撮影でした。


同機は二日前の5月10日、12時3分にR/W-01へL/Dしたところをマニア6人が撮影。
”PG-05”は派遣先となっていたグアム、NAS AGANAに戻って行きましたが、
この当時、VP-65は嘉手納にも派遣され、同時に二カ所で任務に就いていました。


この日,エンドに来たマニアは46人.又,CAMP FUJIでは基地が一般公開されCH-46D/YP-010が展示されました。


今日は自分が南のカドで撮った機体で最も”興奮”したショットをお届けします。
それは「固定翼機」ではなく「回転翼機」、そうヘリコプターでした。
1984年5月10日(木曜日)8時3分、51空のフライトラインを出た”MIGHTY-91”は
ホバリングせず、”タキシング”しながら誘導路”AE"へ入って来ました。


況してや、そこでホバリング訓練を撮るのも初めての経験でした。
この日は厚木の常連5人がエンドに集まりましたが、
”MIGHTY-91”の撮影時は時間が早かったせいか、誰も居らず、自分一人だけでした。


YS君とパンダさんの3人で急遽、羽田に行く事になりました。
羽田に到着したのは14時30分、待つ事15分、羽田R/W-22へL/Dして来たのは
「PERTAMINA PETROLEM/ROBIN AIR」という100%インドネシア政府が出資す会社のガルフストリームでした。
撮影後、直ぐに厚木に戻りましたがRCのオライオンがL/Dしただけの撮り逃しで済み、
インドネシア政府機を撮れた収穫の方が大きかった一日でした。
GRUMMAN G-1159,GULFSTREAM IIの履歴。
1969年、就航→N-815GA(TEST REGI)→N-711R→N-771R→PK-PJG→N-152RG→N-215RL→VR-BHA,
→N-115GA→N-51741→N-245GA→N-711R→US ARMY/VC-11A,89-0266→N-245GA,
→N-250MS/MARTIN SPROCKET & GEAR Inc/GULFSTREAM II-SP(3 March.2014)


1980年5月18日の厚木三軍記念日は風雨の強い朝から始まりました。
天気は時間の経過と共に回復し穏やかな日和となりましたが
自分の撮影した開門直後は最も酷い天候下で人もカメラも「ずぶ濡れ状態」で大変でした。
そんな状況下でしたが大型の脚立に乗って撮影したVMA-542"FLYING TIGERS"のAV-8A/158711,WH-02.


此方は脚立を降りて地上からの撮影ですが、面白みに欠けて居り、
頑張って脚立の上から撮影するべきだったと後悔しています。
同機はAV-8Cに改造され運用後、1986年9月26日、AMARC入り。
全般的にハリアーの追跡資料は乏しく、アノ迷彩塗装が影響を与えているのか、原因は不明です。


"AREA-4"は静岡県、沼津から愛知県、四谷の千枚田付近にかけて広がる長方形の低高度訓練エリアで、
海兵隊機がCAMP FUJIで演習する際によく使う訓練エリアです。


小型機のブロンコですが、太陽の光で最も機体が「光り輝く」写角を得る為、意識的に135oを選択。
後はモータードライブを打ちまくり、東洋現像所からスライドが出来上がって来るのを待ちました。
出来上がったコマを確認していくと2コマだけT/Cが浮き出ているコマが有りました。
そのT/Cはなんと”ER"!
未だに自分が撮った事のないVMO-1”YAZOO"の所属機だったことが判明した瞬間でした。
VMO-1の所在地はアメリカ東海岸、ノースカロライナ州、MCAS NEW RIVER.
VMO-1はVMO-2と共にMCAS FUTENMAのVMO-6(WB)やH&MS-36(WX)のOV-10を運用するパイロットを
派遣していたのは知っていましたが、その機体までは日本に飛来していませんでした。
但し、この”ER"のショットをもって"ER"の機体を撮った!と言えるかというと
それは多分Xでしょう。
それでも自分の気持ちとしては「半分」は撮れたと心密かに思っていたりするのです。




1977年4月18日(月曜日)9時42分、岩国へ向け厚木R/W-19を離陸するRG-422.
右舷(STARBOARD)にだけ,コックピット後方に小さく”THE TASMANIAN DEVIL"と書かれていました。
又、この日は素晴らしい天気でしたが風が強く、調布飛行場は11時から業務停止となっています。
RG-422は18時35分、厚木R/W-19に戻っています。


RG-724のコックピット後方にPO CITY EXPRESS"とパーソナルネームが書き込まれていました。
当日はCVW-5機のフライオフが行われましたが、
その離陸を「ニッピ山」で撮ろうとする常連マニアが何と9人も登って来たのには驚きました。
何故なら、常連ですからニッピ山で撮影出来る人数(二人)は知っている筈なのに
それでも敢て登って来たのが、非常に不可解だったからです。
案の定、ニッピ山での撮影は混乱し、二人が限度の撮影台に無理やり二人が乗り込み(合計4人)、
転落の危険がある状態に一変し罵声が飛び交う険悪なムードとなり、
残り7人はフェンスの中を走り抜けるCVW-5機に悲鳴が沸き上がる始末でした。
結局、一人、二人とニッピ山を下山し始め、一時間ほどの内に一人を除いて皆引き揚げて行きました。
其の時の映像がI.Nの掲示板に「証拠写真」が掲載されているので確かめることが出来ます。
以降、ニッピ山へ登って来るマニアは殆んど居なくなった事が、この”事件”の唯一の救いでした。


因みにRG-724が撮れた1976年5月20日の話題で最も”衝撃的”だった外来機が1機ありました。
それは自分が最も撮りたいオライオン、VXN-8のRP-3A/149667,”EL COYOTE"の飛来でした。
機体全体を紅白に塗り込めた"PROJECT SEASCAN"機が厚木R/W-19へ降りたのは18時42分。
撮影出来る時間帯を既に大きく超えていて見ているだけという悲劇的状況での出迎えだったのです。
"NAVY-667"は4日後の5月24日(月曜日)10時53分、曇り空の厚木R/W-01を離陸、撮り逃しています。




翌5月4日(日曜日)早朝、三沢を往復したRX-116は12時3分、再び三沢に向けT/O.
機首には"CITY OF LONG BEACH"とパーソナルネームが書き込まれていました。


1976年5月7日(金曜日)9時28分、ローカルフライトに飛び立ったNF-310は11時に厚木R/W-19で
T/Gを4回実施し11時20分にL/D. パイロット名はLT RUE ROBERSON. R/Wエンドにマニア二名。


パイロット名はLCDR DAVE FITCH, P/CはAN WILLY D. WILLIAMS. R/Wエンドにマニア11人あり。
因みに、午後もNF-406と412が美保基地に向かって離陸しています。


この日R/Wエンドに来たマニアは30人。NF-305/300は14時36分、R/W-01へL/Dしています。


3日後の4月10日(火曜日)10時52分、嘉手納に向けR/W-19を離陸。
この日の18時38〜42分、VA-147のA-7E/NG-400/404がL/Dしていますが
自分はNEの着陸は撮り逃がし、NGは着陸時刻が遅すぎて撮れずと「運」に見放されていました。


今から54年前の1968年3月29日(金曜日)2機のVA-153"BLUE TAIL FLIES"の
A-4E/151124/151030,NL-310,314が厚木R/W-19へL/D.
翌々日の3月31日(日曜日)には11機のCVW-11(NH)機が厚木R/W-01へフライイン。
4月1日(月曜日)にNL-310がローカルフライトを実施。
4月2日(火曜日)横須賀に空母キティーホークが入港し、
厚木にVAH-4,DET-63のKA-3B/138971が単機フライイン。
その日、唯一フライトした艦載機がVA-153のA-4E/151030,NL-314で
10時15分、厚木R/W-01をローカルフライトにT/O,11時35分、L/Dでした。




A-4EからA-4Fに機種改変しハンプバックが追加された事で印象が変わりました。
撮影者は松野隆司さん。
彼は自分より一年下ですが裕福な家庭のお坊ちゃまで「カラー」が使える身分でした。






1973年3月6日,イタリア NAS NAPLESから離陸するVR-24"LIFTING EAGLES"のC-130F/149794,JM-794.
撮影者はANGELO ROMANO氏。
VR-24は当時スペインのNS ROTAをホームベースにしてNAS NAPLESもサブとして数機が常駐。
1976年にはホームベースをシシリー島のNAS SIGONELLAに移しています。
C-130F/149794号機は1989年7月13日、NS ROTAに移動。
1992年8月27日、グアム島、NAF AGANAで台風”OMAR"の直撃を受け修理不能な被害を受け
登録抹消となっています。


そう、海軍機ファンの皆さんならお判りの事と思いますが
T/CがVRC-50のT/C"RG"ではなくVR-21のT/Cの"RZ"のままの飛来だったのです!
このようなミス?はVR部隊では殆ど例が無く、非常に珍しい出来事でした。
C-130F/149801号機は1985年、VR-24/JM-801としてNS ROTAで運用。
1995年、漁礁として海底に沈められ終わっています。
RZ-801が飛来した当日、CV-41が横須賀に帰港。
夕方、空母コーラルシーから其のCOD機であるC-1A/136766が飛来し、横須賀入港を予感させました。




自分はVRC-50の塗装の中で此の時のマーキングは一番気に入っていましたが
何故か悪天候下での撮影が多く、此の時は珍しく晴れてくれ助かりました。
”RG-787”は8時55分、三沢に向け厚木R/W-01を離陸。マニアは4人がエンドに来ていました。
C-130F/149787号機は1994年8月10日、AMARC入り。
1997年1月8日、南アフリカ空軍機#410として運用開始。
然し、何故か1999年よりWATERKLOOF ABで保管状態に置かれています。




撮影前日、4月19日の厚木はCVW-5機のフライオフがあり、翌日は暇であろうと予想し、
友人のYS君と新車のISUZU-117 COUPEに同乗させてもらい訪れたものでした。
早朝から基地外周道路から空自機を撮影していると、直ぐに警務隊が現れ注意を受け、
暫くするとパトカーも登場する騒ぎで撮影も儘ならない状態となりました。
最後には正門から年配の佐官クラスが現れ話しかけてきました。
其の話から航空機マニアと分かると思いもかけない話をしてきました。
「こんなところで写真を撮っても、大して良い写真は撮れないでしょうから、中で撮ったら?」
と、思いもかけないお誘いを受け、正門で手続きをして本当に中で撮る事となったのです。
基地内の撮影は航空機の動線に入らない限りは何処で撮っても良いという”破格”の扱い。
案内・監視役の隊員も居らず「撮影が終わったら声を掛けてね」といって隊舎へ戻ってしまいました。
結局、K-IIx13本、ブロニーフィルム7本を使い切り昼食時間直前にお礼を言って退散。
今でも信じられない「おおらか」な時代の体験で、本当に"昔は良かった"と心底思う一日でした。
因みに此のB-65/6728号機は航空自衛隊より海自に計器飛行訓練の為、貸し出された機体で
海自がB-65による計器飛行訓練を中止した事で1980年3月4日、空自に返還され
入間のHFG所属機/03-03095として運用。
用廃後は空自、那覇基地で展示機となっています。


基地に着き、周囲を探索、撮影出来そうな場所を見つけました。
朝はR/W-07運用で目の前の誘導路をT-33/F-86が離陸に向けタキシングするのですが
その「撮影距離」が圧巻の近さである事に仰天させられました。
F-86Fが2機でタキシングして来ると手前の機体は標準レンズで”はみ出る”のです!!
何という”近さ”なんでしょう。興奮で身体が震え息をのみ
ました。
写真は午後、R/W-23にL/D後、
マニアが珍しいのか此方に手を振りながらタキシングする10空のF-86F/02-7982,"EIKAS-02".
確かに、一日中他のマニアの姿を見ることは一切有りませんでした。
築城訪問から46年が経ちましたが、アノ場所は今でも健在なんでしょうか?
もう、行く事はないと思うのですが、もしあの場所が有るのなら? と、一瞬、マニア魂が頭を擡げました。


今朝は其の当時、皆から親しまれていたVRC-50のCT-39E/157353,RG-353のご紹介です。
1973年5月27日(日曜日)8時,厚木R/W-01を飛び立ったRG-02は10時30分,R/W-19へL/D.
それをニッピ山から撮影。マニア24人がエンドに来ていました。


14時30分、2star(少将)搭乗を示すプレートをキャノピー内に掲げショートカットでL/D.
このように”サンキュー”が主翼上面が見えるまで捻って着陸するのは稀な事で
その貴重なシーンに立ち会ったマニアは8人が居りました。


この"NALCO-46"にはCNOから授与されたSafety”S"がキャノピー後方に表示され、
その後方には"SPIRIT OF SEOUL"とパーソナルネームが記入されていましたが
"SPIRIT OF SEOUKL"とは何を指しているのでしょう?
「反日種族主義」を国是としている国の"SPIRIT"とは如何なるものなのか
文字を記入した人に問い質したい気持ちがしました。
そのことは別にして、VRC-50のCT-39Eには大変、お世話になりました。
一日中エンドで待っていても外来機が皆無の日、
”サンキュー”の機影を確認すると一同、胸を撫で下ろしたもんでした。
そんな時、普段は見向きもしないRGをマニア総出でレンズを向け
此の日,最初で最後のシャッターを心の中で"サンキュー"と呟きながらボタンを押し家路に就きました。


VRC-50機は基本的に部隊表記以外、何も書きませんが、時折、このような塗装がされると嬉しかったのですが、
殆んどのものが、ある程度すると消されてしまう運命にありました。
CT-39E/157353は1989年3月4日、VRC-30/RW-353となり、1990年11月14日にAMARC入りするまで運用。
同じ日、ND-0001のレジを与えられはしたものの、AMARCから出ることは無く保管状態に留め置かれたままでした。
それでも157353は最後となった1989年〜1990年の間に、860人の人員輸送と22,600kgの貨物を空輸。
長期間、無事故で”地味”な任務を全うした同機に”お疲れ様”と言いたい気分になりました。


1984年4月6日(金曜日)16時過ぎ、横田R/W-36へWPのF-16A、2機がL/D.
この"DISCO-01"FLIGHTの内の1機は35TFSのCO機であった為、
翌4月7日(土曜日)早朝からWP/CO機狙いで横田に出かけました。
8時50分、悪天候の中、南側国有地前の誘導路で離陸の為、スタンバイするF-16A/80-0560,WP,"RUSTY-01'2".
F-16A/80-0569の履歴。
17TFS/SW(Feb'82)→63TFTS/MC(Mar'84)→465TFS/SH(May'89〜1992)→1994年4月1日、AMARC入り。
2017.7月12日も同地で保管中。


35TFSのCO機、F-16A/81-0735,WP, "RUSTY-01".
同機のportsideの主脚扉に8thTFWのシンボルである"WOLF PAC"のアート画が描かれていました。
描かれていたのは左側だけで右側扉には何も描かれていませんでした。
因みの、1983年7月2日(土曜日)の独立記念日に先立って開かれた横田の一般公開に展示された
8TFWのCO機にも同じようなアートが描かれていましたが、アニメチックなものでした。
ところが,此方の35TFSの"WOLF PAC"は金色の眼に赤い口を開け牙をむいた精悍なスタイルで迫力十分。
出来れば晴天の下で撮影したかった機体でした。


F-16A/81-0735の履歴。
347TFW/MY(Feb'88)→136FIS/-(Oct'90〜15May'92),1994年2月2日、AMARC入り。


1978年6月1日(木曜日)13時18分,本庄地域上空のYOKOTA VFR TRAINING AREASに向かったNF-200は、
14時38分、厚木R/W-19へと戻って来ました。
パイロットネームはCVW-5のCAGであるCDR STU D.LANGDONとLT CHUCK FOGELMAN.


濃い霧が立ち込める厚木基地、南側誘導路AEをR/W-01離陸に向けタキシング。
撮影日は1984年6月5日(火曜日)午前6時38分。
使用カメラはASAHI PENTAX LX.
レンズはSMC TAKUMAR 200o、F-2.8.
フィルムはコダック、コダクローム64プロ(PKR),K-14処理フィルムを使用し
絞り開放、シャッタースピード1/60で撮影。
湿度100%で霧の水分がレンズ表面とアイピースに纏わり付き、
ティッシュペーパーでレンズ表面を拭きふきしながらの撮影で、往生しました。
因みに此の時、NF-200のパイロットは前席にだけ"BOB"と記されていただけでしたが、
これはCAGのCDR T R.BREADのROBERTの愛称を付けたものと思われます。
又、6月5日はCV-41に向け早朝のフライオフとなったもので、18機のCVW-5機が離陸しています。


13時23分、T/O,14時30分、L/D.
F-4S/153827の履歴
VF-121/NJ-165(1969)→VMFA-235/DB-1(1970)→VF-92/NG-214(1973)→NG-201(1975),
→VF-151/NF-203(1979)→VF-154/NE-102(1979)→F-4S(Jan'81)→NF-214(1982)→NF-200(1984),
→NF-203(1985)→NF-200(1986)→1986年4月28日,AMARC入り→2008年7月28日,HVF WEST社でスクラップ。


1979年4月28日(土曜日)11時40分、普天間から厚木へ
4機のCH-46D/153358/153370/154004/154030,YP-010/011/013/016が飛来。
6月11日(月曜日)まで、1か月以上に亘り厚木を拠点としてCAMP FUJIで演習を行いました。
そこで5月4日(金曜日)6時15分、車で家を出て東名経由で7時43分にCAMP FUJI到着。
15分後に4機の"YP-010"FLIGHTが富士R/W-02に着陸し、ホバリングしながら
R/W-20エンド沿いに設けられているへり・スリップにL/D.
先頭のYO-010はCO'PILOTが右手を上げ,こちらに挨拶を送り乍らレフトターンするサービスぶり。
クルーも”何で此処に?”と興味ありげな視線を送っています。


彼等は、自分達のヘリが撮りたくてCAMP FUJIまで遠征して来た事を知り大喜びし、
その中のSGT HAROLD E.HOLBERTが自分らの記念写真を撮ってほしいと頼まれ撮影したのがコレ。
写真が出来たら送ってくれと、手帳の住所欄に書き込み手渡されましたが、
今に至るまで送る事は有りませんでした。
不義理を恥じるばかりですが,今回,デジタイズした事でスキャンより数段「見栄え」が良くなった事もあり
郵便ではなくネットから直接、部隊に送り、彼らに渡してくれるように頼むつもりでいます。


一通り撮影し、10時42分、CAMP FUJIを出発。12時過ぎに厚木R/W-19エンドに到着。
往復、233q、東名高速代、往復で1600円でした。
因みにCH-46D/153358は1989年ネバダ州 NAS FALLONでリザーブのHMM-764”WILD GOOSE"/MQ-xxxとして
活動中、他のMQ機の上空を横切ろうとした瞬間、ローターブレードが153358の尾部扉後方に接触、
後部座席に座っていた二人の女性兵士に当たり両名とも即死。
153358号機は修理不能な損傷を負い登録抹消。
不幸中の幸いは残り7人の搭乗員は無傷で救助されたことが唯一の救いでした。
又,154030号機は1980年12月19日、沖縄北部演習場で材木切り出し用ワイヤーに接触
飛んできたワイヤーが操縦席のパイロットCAPT ODENを直撃し、彼は死亡。
他のクルーに被害は無かったものの、機体は修理不能と判定され登録を抹消されています。


1977年4月18日(月曜日)グアム島、アガナを飛び立ったPR-00は飛行中にマイナートラブルが発生。
11時55分、地上から機体をグランドクルーに確認してもらう為、ローアプローチを1回実施後、
正午丁度、アレスティング・フックを出して緊急着陸したところを故荒川君と共にニッピ山から撮影。
又、19エンドでもマニア10人がPR-00を撮っていました。
因みに、PR-00は翌朝までに問題が解消せず、9時25分、アガナに引き返していきました。


11時45分、厚木R/W-19に戻って来ました。
PR-03の前脚カバーには”潮吹きクジラ”のマークが書き込まれていたので
仲間二人と機首アップを撮影。


豪快な白煙を出しながら厚木R/W-01へタッチダウン。
PR-003は公開翌日の5月21日(月曜日)10時56分、アガナへ戻って行きました。


此の時、R/Wエンドに居たのは「ゲンちゃん」唯一人。
一時間遅れで西村さんが現れ、エプロンを覗いて”絶句”。。。
自分は夜になって彼から電話が入り、初めて其の存在を知る事となりました。
翌朝から、連日の厚木詣でとなったのは言うまでもありません。
6月19日(水曜日)5時からニッピ山でスタンバイ開始。
やっと7時16分、ハンガーからPR-7がエプロンに曳き出されてきました。
4人のクルーが現れたのは7時32分。10分後の7時42分にエンジンスタート。
PR-7が上がったのは7時56分でしたが、脚の引き上げが遅く”迫力”に欠ける映像で少々残念でした。
PR-7"SPASTIC SPINSTER"はマニア6人が待つR/W-19へ14時49分L/D.
以後、連日PR-7の離陸を撮り続けましたが、低い離陸は皆無。
”普通”の高さで晴天下に撮影出来たのは1回だけと厳しい結果に終わっています。


7年前の今日は厚木基地の一般公開日でした。
開門前の行列に並び、手荷物検査を受けフライトラインへ向かうとP-8AがT&Gをやっていました。
今は並んでまで一般公開へ行く元気は無くなったのが情けない。
1968年5月19日(日曜日)に開催された厚木三軍記念日は
終日に亘って雨が降り続く生憎の空模様でした。
そんな中でも観客は詰め掛け、展示機の周りは人が張り付き
人影が絶えた間隙を衝いて撮影するのは至難の業でした。
そこで、一計を案じたのがMACH3さん。
彼は航空機から人が居なくなる時が一つだけある事に気付いたのです。
それは暴風雨が吹いた時だけ観客はハンガーに避難しヒコーキから離れることを!
今回アップしたUE-00が、其時、彼と共に雨の中を飛び出して撮った時のショットです。
それでも左端に人物が入ってしまいましたが、ほぼ所期の目的達成。


但し、カメラ、レンズは無論、全身ずぶ濡れ状態となり、二人とも悪寒が止まりませんでしたが
MACH3さんの顔を見ると、満足そうな笑顔で、こちらも思わず笑ってしまいました。


日没直前の一瞬だけ陽炎が消え撮影可能な時があり、
其の時を狙って、満開の桜とCVW-5機を重ねて撮影する事に挑戦したのが此のショットです。
ご存知のように桜の開花時期は短いので、このように天気、ヒコーキ、桜の三つが
上手く揃う事は中々無く、自分が撮れたのは此の時一回だけでした。


この日は10時3分から17時35分にかけて26機のCVW-5機がフライイン。それをマニア36人が撮影。
後方に見えるP-3B/152764,VP-46,RC-11は10時45分に離陸予定でしたが、CVW-5機の着陸待ちとなり、
15分遅れの11時に,やっと岩国へ帰って行きました。


1980年5月7日(水曜日)10時24分、VMA-211のA-4M/158177,CF-3/452"WAKE-19"/'1が厚木R/W-01へ着陸。
此の時期のCFはロービジ塗装へ移行する直前の塗装でした。


A-4M/158177の履歴。
VL-xx(1971〜1972)→KD-xx(1972〜1974)→SC-xx(1974〜1976)→WE-xx(1976)→CF-1(1976〜1979),
→CF-3(1979〜1980)→WE-xx(1980〜1981)→CF-xx(1981)→WL-15(1982〜1983)→CF-xx(1983),
→WL-16(1987〜1988)→WE-xx(1988)→CF-xx(1988)→1990年1月10日、AMARC入り。
2003年9月25日、HVF WEST社に於いてスクラップ処理。


これら2機のハンプバックには白で小さくハンプ番号が記入されていましたが
何れも機首番号に"499"を加えた数字で、この"499"の意味するところが今も未解明のままです。


因みに岩国を飛び立った6機のED/A-6Eは、この日、C-9の先導でアガナからウェーク島に向け飛行し
アメリカ本国を目指しました。
A-4M/160027の履歴。
WE-6(1976〜1978)→WL-465(1978)→CF-22(1979〜1980→WE-22(1980〜1987)→NAS DALLAS/7D-03(1987〜1991),
1992年、NADEP CHERRY POINT入り。


前にお話しましたが、自分の最も好きなヒコーキはRA-5C”VIGILANTE"です。
ところが最も撮れなかったヒコーキもRA-5Cでした。
今回は、その最も撮れなかったRA-5Cのカラーショットをお届けします。
撮影者は川崎在住の先輩、高橋幸和さんです。
このスライドはカラーショットが撮れなかった自分を憐れんで
高橋さんがプレゼントしてくれたものでした。
RA-5C/149300の履歴。
A-5B→YA-5C(1962)→VAH-3/GJ-xx(1963〜1964)→RA-5C(1965)→RVAH-3/GJ-xx(1965),
→RVAH-12(1965)→RVAH-11(1965)→RVAH-12/NK-120(1967)→RVAH-3/GJ-xx(1968),
1975年」1月3日、NAS JACKSONVILLEで運用不可の裁定を受け退役。


VFP-63,DET-31のCO機、RF-8G/146876,NF-601.
パイロットネームはLCDR JHON H."THE RED BARRON" SCHULZE,OIC.
胴体後部のベントラル・フィンにはVFP-63,DET-31"FLYING CIRCUS 68"のパッチが貼られていました。
画面手前に写る黒い影は写友である松野隆司さんで、当時彼は鎌倉高校の1年生でした。
今、健在ならば69歳の筈ですが、音信不通で連絡が取れません。
RF-8G/146876の履歴。
VFP-63/PP-910(1963)→RF-8G→NF-601(1968)→NF-600(1969) →PP-901(1971)→NP-611(1974),
→NL-651(1974〜1975)→NP-606(1975)→PP-910(1975)→PP-610(1976)、
1976年6月1日、NAS MIRAMARから離陸中エンジン故障で墜落し機体は失われました。


非常に安定感のある編隊離陸で空自隊員の練度の高さを実感させられた離陸でした。
RF-86F/52-6401の履歴
USAF 531stFBS/21stFBG(1953)→JASDF/52-7401〜52-8401〜52-6401(1955)→RF-86F(1961),
→501stSQ/JASDF(1968)→1979年3月24日、用途廃止→US NAVY QF-86F/55-5082、
→RF-86F/USAF 55-5019/FU-019(2007).
RF-86F/62-6425の履歴。
391stFBS/366thFBG(1953)→JASDF/62-7425→RF-86F/62-8425〜62-6425(1962)→501stSQ(1976),
→1979年11月1日、用途廃止→韓国空軍機となる。


今日は家事多忙につきコメントなしでのアップとなります。
どうぞご容赦下さい。
1976年5月11日(火曜日)12時40分、L/DしたWT-9は15時48分、R/W-19を岩国へ向けT/O.
垂直尾翼の方向舵がUSAF機のものを流用したようでした。
パイロットネームは"CORNFLAKE"、RIOは”NAMU"と面白いパーソナルネームを使用していました。






1974年5月27日(月曜日)19時30分、VMCJ-1のRF-4B/2機が厚木R/W-01へ着陸。
これは5月25日(土曜日)に横須賀を出港した空母ミッドウェイへDET派遣するにあたっての、
準備を兼ねた飛来で、翌28日の9時15分、RM-603/606は空母へ向かって厚木R/W-19をT/Oして行きました。
VMCJ-1は部隊改編後のVMFP-3も含め1975年8月25日から1984年までの9年間に亘り
空母ミッドウェイへDETをローテーション派遣し続け、
5人のパイロット、5人の士官、そして100人以上の海兵隊員が6か月間のTAD海外展開の任務に就きました。
撮影時点で既にMdxは600番台のCVW/DET仕様を使用して居りMdxひとつにもVMCJ-1の意気込みが感じられました。
RF-4B/153105の履歴。
RM-603(1974〜1976)→RF-613(1979〜1980)→RF-21(1983〜1988)→1989年7月19日、AMARC入り、
2008年11月20日、HVF WEST 社に於いてスクラップ処理。
RF-4B/153108の履歴。
RM-21(1972)→RM-606(1974)→TN-2(1975)→RF-24(1980)→RF-120(1981)→RF-24(1984)→1988年12月23日、AMARC入り。
2008年11月20日、HVF WEST社でスクラップ。


しかし、目の前で見るバイセンRF-4Bに大した感慨は湧かず
やっぱり自分には「外撮り」が性に合っていると再認識した撮影旅行でした。


12時10分、単機で厚木に姿を見せました。
13時37分、御宿に向け離陸の為、厚木R/W-19へ向かう"RF-614"を「お墓」の木の最上階,特等席から撮影。
RF-4B/153107の履歴。
RM-20(1970)→RF-610(1976)→RF-614(1977)→RF-23(1979)→1989年5月25日、EL TOROからAMARC入り、
2008年11月28日、HVF WEST社でスクラップ。


1974年5月4日(土曜日)15時36分、厚木R/W-19へ着陸するVMA(AW)-533のA-6A/155687,ED-3.
パイロットネームはCAPT L.D. EVANS,
着陸後ED-3はニッピではなく西側エプロン(海軍側)へ向かいエンジン修理の為AMDハンガーに入りました。


12日の早朝から最終的なエンジンテストをし復調を確認。10時57分、R/W-01をT/O,岩国へ戻って行きました。
A-6A/155687の履歴。
DT-3(1970)→ED-3(1971〜1975)→A-6E→NG-505(1980)→NL-512(1981)→AE-500(1985〜1987),
1987年9月、CVA-50 USS FORRESTALに搭載され英国ポーツマスを訪問→AA-510(1992〜1994)、
1994年8月23日、AMARC入り。2014年10月21日、HVF WEST社でスクラップ。


光線状態が最悪の12時4分にR/W-01へ大きくカットインしながらアプローチして着陸。
これが順光なら、最高のL/Dショットが撮れたのに残念な時間帯の降りとなってしまいました。
EA-6B/160705は1983年4月28日、ノースカロライナ州MCALF BOGUE FIELDで夜間FCLPを実施し
訓練終了後の着陸でスタビライザーが失速。4人のクルーは緊急脱出しましたが
パイロットの座席だけが事故の衝撃で機体から引き裂かれ落下、大怪我を負ってしまいました。
他のクルー,CAPT G.B.HABBESTED/CAPT J.F.SCHEINER/CAPT J.J.CUFFの3名は全員無事脱出に成功していますが、
EA-6B/160705号機は修理不可能な損傷となり登録抹消となってしまいました。


昨日、No-4514で、ED-3の厚木飛来を「エンジン修理」とご紹介しましたが
手帳を見返したところ、1974年の4月から5月にかけてED-6号機を除くVMA(AW)-533の
全13機すべてが飛来していることが判明しました。
又,厚木飛来後の動きも押し並べてAMDハンガー〜ペイントショップ・ハンガー〜ニッピと移動していました。
これらの事から類推すると個別の「エンジン修理」での飛来ではなく
エンジンへの何らかの改修等で部隊単位で飛来したと見るとスッキリ理解できるのですが,どうでしょう?
1974年5月25日(土曜日)8時30分、ニッピから出て厚木R/W-01を離陸して岩国へ向かうED-00.
A-6A/157024の履歴。
NH-507(1972)→ED-2(1973)→ED-00(1974〜1975)→A-6E→NF-515(1991〜1994),
1994年、バージニア州NAS NORFOLKで退役。
2003年8月、バージニア州のRICHMONDにあるDEFENSE SUPPLY CENTERで展示。




着陸後、同機は一旦ニッピのエプロンに駐機しましたが
暫くするとペイントショップ・ハンガーへトーイングされハンガー・イン。
其の後、ED-8は5月22日、エンジンテストを実施。翌23日(木曜日)岩国へ戻っています。
A-6A/155708の履歴。
CE-08(1969)→ED-8(1973〜1975)→A-6E→NE-500(1980〜1981)→DT-5(1982〜1983)→AE-5xx(1991),
1991年7月21日、クレタ島の近くにあるAYGONISE島付近の地中海に墜落。


1980年5月7日(水曜日)10時1分、VMA(AW)-533のA-6E/159904,ED-02,”BRAVE-00”がR/W-01へL/D.
9時50分に高度9000ftへ降下しYOKOTAアプローチにコンタクトした時は”BRAVE-00”とコールしたので
当然、ED-00と思い込み、ED-02が降りて来たのでガッカリした記憶が有ります。
ED-02のパイロットネームはCAPT KARK CABARIA.


A-6E/159904の履歴。
ED-02(1980)→ED-04(1981〜1982)→VA-65/AJ-504(1992)→VA-36/AJ-504(1993)、
1994年4月、バージニア州NAS NORFOLKで退役。


有視界によるトレーニングフライトを実施後、厚木に戻りR/W-19でT/Gを実施後の14時12分、L/D.
この時のNF-513は相鉄線と平行にファイナル・アプローチして来た為、
4人のマニアは一斉に相模大塚駅方面へダッシュし、辛うじて送りショットで撮影出来たものです。
現在は当然,猛ダッシュなど不可能で,若かったからこそ掴めたショットで、「アノ時」は若かったな〜。。


左にHさん、中央がKさん、そして右端は高校生のBIG MACさん。
この日はQD-688/ZE-17/そして海自のネプチューン(2/3/4/5空)が撮れた日で、
PR-33の「おかえりショット」を撮り終えて帰路に就くところのスナップです。


1969年5月28日,厚木に到着し中を覗くとニッピのフライトラインにVF-213のF-4Bが駐機していました。
自分は昔からCVW-11(NH)機には全く縁が無く、このNH-115号機も撮り逃し。
このままだと、間違いなくフライトや離陸も撮り逃すだろうと判断し、
せめて「記録写真」でも良いから撮って置こうとニッピ裏から撮影したのが此のショットです。
このF-4B/153068号機は1972年にVF-161/NF-110となり活動後、1973年にも続投。
1月14日,"ROCK RIVER-110"はコバレスキ中尉とRIOのプラウツ少尉コンビで空母ミッドウェイから
ベトナム人民空軍(VPAF;VIETNAM PEAPLE's AIR FORCE)に対する
"BARCAP"(BARRIER COMBAT AIR PATROL)ミッションに向かいました。
タンホアの南10マイル(16km)のところで"BLUE TREE RECONNAISSANCE ESCORT MISSION"の最中に
85mm対空砲火の攻撃により被弾。ファントムの航空燃料が大量に漏れ出します。
それでも"ROCK RIVER-110"はベトナム沿岸を目指し飛行,沖合に出た段階で両名は緊急脱出。
急を聞きつけて現場に駆け付けたHC-7のHH-3Aにより無事救助されCVA-41に戻る事が出来ました。
この墜落の二日前、1973年1月12日、LT VICTOR T.KOVALSKIとLTJG J.R.WISE(RIO)のコンビは
AIM-9サイドワインダーでVPAFのMIG-17を撃墜するという戦果を挙げています。
又、その前年の1972年5月18日にもF-4B/153068号機はLTJG H.A.BARTHOLMAYとLTJG ORAN R.BROWNで
MIG-19を撃墜している”凄腕”のMIG KILLERでした。
但し、1971年、CVW-5機の厚木飛来時にF-4B/153068,NF-110が来なかった事が残念でなりません。


当日の10時3分、訓練の為、本庄上空を目指して離陸し始めたVF-161のF-4J/155835,NF-113は
離陸の瞬間に何らかの原因でセンタータンクが落下し爆発炎上!
NF-113はR/W-01左側をローアプローチして、グランドクルー達が機体下面の状態を確認。
緊急着陸を考慮し、基地上空で残存燃料(1.5時間分)を空中投棄する事とし旋回。
10時47分、アレスティング・ギアとRATを展開しながら無事L/Dし事無きを得ました。
F-4J/155835の履歴。
VMFAT-101/SH-20(1974)→VF-161/NF-113(1977〜1980)→1985年3月29日,VMFA-112/MA-05よりMASDC入り。
2008年8月6日、HVF WEST社でスクラップ。


16時11分、R/W-19へ緊急着陸。 それを仲間8人と撮影。
F-4S/155754の履歴。
VF-102/AG-103(1974〜1975)→AG-105(1976)→F-4S→VF-121/NJ-152(1980)→VF-151/NF-211(1981〜1983),
1985年3月墜落事故を起こし登録抹消。日本の業者により海中から回収。


本日はHAMANOさんの作品をご紹介致します。
1973年5月26日(土曜日),長崎県佐世保に空母コーラルシーが寄港。
その艦載機をHAMANOさんがシッカリ捉えていました。
厚木にはコーラルシー入港の前々日、5月24日(木曜日)に2機のVF-51/F-4B,NL-110/114がL/D.
翌25日に三沢に移動して行きましたので、厚木のエプロンにCVW-15機はゼロでした。
という訳で、此の時のCVW-15機のBuNo等は殆んど掴めて居らず
HAMANOさんのショットは貴重なものとなりました。
最初のショットはVF-51"SCREAMING EAGLES"のF-4B/151592,NL-103.
F-4B/151502の履歴。
VF-151/NL-102(1965)→VF-21/NE-108(1966〜1967)→NE-104(1967)→VF-51/NL-103(1972〜1973)、
→F-4N→1978年1月17日、VF-171/AD-xxx機としてMASDC入り。
2004年9月17日、HVF WEST社でスクラップ。


F-4B/151464の履歴。
VMFA-323/WS-8(1966)→VMFA-115/VE-5(1967)→VE-00(1967)→VF-111/NL-211(1973),
→F-4N→VMFA-323/NK-105(1979〜1980)→1980年2月19日、CVA-43艦上の事故で登録抹消。


RF-8G/145641の履歴。
VFP-63/NL-603(1969〜1973)→NL-601(1974)→VFP-63/PP-602(1975)→PP-642(1976)→AA-601(1978),
→VFP-63/NK-622(1979〜1981)→1981年7月19日、エンジン故障により海上に墜落。


1970年4月15日(水曜日)9時30分、空母コーラルシーが横須賀に寄港。
其の前日の14日に単機で厚木へフライインして来たのがVF-161”CHARGERS"のF-4B/151462,NL-205でした。
そして空母所属のCOD機、C-1A/146039,#000が17時丁度に降り、CVW-15機飛来の夢は絶たれました。
F-4B/151462の履歴。
VMFA-531/EC-12(1965)→VF-161/NL-207(1966)→NL-205(1970)→VMFA-314/VW-xx(1973),
1973年4月10日、アリゾナ州MCAS YUMAで墜落事故を起こし登録抹消。

