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Atsugiの想い出

1960年9月23日 快晴 ひつじ雲  撮影: Tuneo TANAKA

あかつか 2021/05/29(Sat) 09:42 No.2040 [返信]
Re: Atsugiの想い出
都心部から少し離れれば自然の香り漂う美しい光景をいつも見られたのが1950年代から60年代初頭の頃まででした。
季節ごとの雲をバックにお目当てのヒコーキを撮る。
モノクロ中心の写真世界の定番ではありましたがTanakaさんのこの作品に魅入ってしまうのは、
昭和35年秋の厚木ランウェイエンドを一枚の写真の中に見事に表現されているからなんですね。
あかつか 2021/05/29(Sat) 10:17 No.2042
Re: Atsugiの想い出
次のショットでVAH−4のA3D−2であることが分かります。
機首まわり、尾部の銃座、スッキリとした胴体下部、開発時とほぼ同形。
私らが厚木へ通いだした頃、すでにこの“ 純正型 ”は見られず、64年ごろから給油装置を装備しはじめ、主にタンカーとして活躍していました。

あかつか 2021/05/29(Sat) 10:38 No.2043
Re: Atsugiの想い出
来た!何だ!・・・
と撮影者のNakagawaさんは思ったのではないかと勝手に想像させていただきました。

あかつか 2021/05/31(Mon) 19:11 No.2044
Re: Atsugiの想い出
VAP−61(SS)のサヴェージでした。
撮影が1959年4月ということなのでA3D−2Pと交代するギリギリのタイミングだったかも知れません。
A−3ですら遠い世界のヒコーキとなってしまったわけですから前任であるAJ−2Pなど、現在のマニアにとりまして第二次大戦機の写真を見るような感覚しょうね。
私たちが始める3年前。現実には小学生だったから見ることなど無理だったのですが、R2800、J33のエンジンの音は聴いてますので、
サヴェージの「着陸音」は何となく想像はできます。
それにしましても1959年にこのシャシン。凄腕すぎます。

あかつか 2021/05/31(Mon) 19:36 No.2045
Re: Atsugiの想い出
3rdショットもいいムードで撮られています。
この写真は当時の航空情報にも掲載されていますので、ご覧になられた方もいらっしゃるでしょう。
J33の排気孔もしっかり写っており、資料的にも貴重なショットです。

あかつか 2021/05/31(Mon) 19:44 No.2046
Re: Atsugiの想い出
忘れられない!いつまーでも!我々団塊世代には見られなかった、なんとか見たい飛行機ですねえ!気になるんですが、J-33のインテイクは何処にあるんですか?
のらひこ 2021/06/01(Tue) 12:32 No.2047
Re: Atsugiの想い出
>のらひこさん
胴体上部、主翼の付根の位置に孔がありますね。J33の空気取り入れ口はここではないですか。
まあ、実際の使用は作戦時にしか使わなかったようで、着陸時の音はCV440のような感じだったではないでしょうか。
確かにひと目見たかった。大好きな「アナログ感」丸出しの艦載機ですし。
じつは私も1964年にサヴェージ撮ってます。ただし息子の方でしたが(笑) 

あかつか 2021/06/01(Tue) 23:39 No.2048
Re: Atsugiの想い出
>のらひこさん、
あかつかさんが言われるように空気取り入れ口は主翼上面にありますが、普段は閉じているのでなかなか分かりにくいですね。

徳永 2021/06/02(Wed) 13:02 No.2049
Re: Atsugiの想い出
徳永さん、サヴェージのJ33へのフォローありがとうございます。今後もよろしく願います。

下はkomiyaさんが1958年5月18日に大和側で捉えたVAH−16のAJ−2です。
2945と見比べてください。ここでもサヴェージは通常型より偵察型のほうに魅力を感じます。

あかつか 2021/06/02(Wed) 23:58 No.2050
Re: Atsugiの想い出
高見先生のソリッドモデルもご紹介。
すいぶん昔に作られたモデルと思うのですが、インターネットの無い時代に塗装色はどう調べたのでしょうか。
洋書をはじめ、海軍機関係の書物をずいぶんとお持ちだったのでしょうね。

あかつか 2021/06/03(Thu) 00:03 No.2051
Re: Atsugiの想い出
おお!徳永さん、有難うございます。初めて見るアングルの写真です。しかし、傑作機とは言えないので、一冊の本にならずに可哀想です。シャッターがあるんですか?鎧戸かしら?文化シャッターだったりして。しかし位置から言ってAOAによっては負圧になってインテイクから火が出ちゃうんじゃ無いかと心配!
のらひこ 2021/06/03(Thu) 06:47 No.2052
Atsugiの想い出

1956年4月13日の航空写真

あかつか 2021/05/18(Tue) 14:58 No.2018 [返信]
Re: Atsugiの想い出
“ ファントム以前 ”50年代から60年代にかけてATSUGIで最も人気の高かった戦闘機はF8Uクルーセイダーでありました。
F8が主役の時代、まだ第一世代のジェット戦闘機が健在で、誠にバラエティに富んでいた夢のような世界が展開していたのです。

今「バンシー」と聞けば岩国に一時配備されていたEA−6B/VMAQ−1(CB)のおどろおどろしいマーキングを思い浮かべるマニアも多かろうと思います。
我々世代にとってのバンシーとはF3Hデモンの兄貴分、F2Hバンシーのこと。主には古い航空雑誌の写真でしか見たことなく、
正に伝説的存在でした。マニアが撮った写真も少なく横田三軍で公開されたフォトバンシーぐらいで飛行中のショットはごく僅か。
それから数十年、1950年代に厚木でバンシーはじめ第一世代戦闘機を良く撮っていたKomiyaさんKondohさんと縁あって知り合えたことが
キッカケとなりCHECKER TAIL4の出版となったのです。

↓1958年5月6日、厚木Rwy19へ進入するVMJ−1(YW)のF2H−2P。
50年代の長閑な厚木エンドの風景、スモッグ無縁の時代で空も美しい。 撮影:Komiyaさん

あかつか 2021/05/19(Wed) 11:01 No.2019
Re: Atsugiの想い出
1960年2月、TSPCのNakagawaさん撮影のGMGRU−1(ZZ)のF9F−5KD
大戦後すぐアメリカでは直線翼のジェット戦闘機が開発されましたが発達の過渡期でもあり、じつにバランスの悪いデザインの機体が
多々みられました。(味わいは別として)
ですが、パンサーだけは別モノのように思えましたね。「良い飛行機はスタイルも良い」と木村秀政先生がおっしゃる通り。

↓のショットは天気良し!角度良し!構図良し!。本当に素晴らしい作品だと思います。

あかつか 2021/05/19(Wed) 11:50 No.2020
Re: Atsugiの想い出
CHECKER TAIL4の巻頭のカット写真に使わせていただいたF9F−8Bクーガー。 1957年11月 撮影:Kondohさん

↑のバンシー、パンサーのショットもそうなのですが、50年代の空の美しさはカラーでなくても分かります。
そして雲。近年の気候変動からか関東地方で見られる雲のバリエーションが少なくなりましたね。
私らの少年期から青年期にかかる頃まで、春夏秋冬における特有の雲が必ずと言っていいほど見られ
季節の移ろいを肌や目で感じたものです。
基地周辺は街なかより緑が豊富で、飛行機の写真を撮ると共に自然そのものも楽しんで居たんだなあ、と思う昨今です。

あかつか 2021/05/19(Wed) 12:53 No.2021
Re: Atsugiの想い出
1957年10月、Kondohさん撮影のF9F−8P“ フォト・クーガー ”。 クーガー好きには夢のようなカット。

団塊世代マニアが厚木へ行き出したころ、CVGのVFPは全機F8U−1Pに機種転換されており全く縁の無かった艦上偵察機でありました。
私の手元にある日本で撮られたフォト・クーガー最後の写真は1959年10月ですから師匠の年代のマニアでさえも撮っている人は
少なかったのです。
多くの先輩方が望遠レンズを持てない時期でもあり、よけいにF9F−8Pへの憧がれが強かったようです。
『8P(ハチピー)クーガーだけはしっかり撮りたかった』との声をよく耳にしました。

あかつか 2021/05/19(Wed) 13:35 No.2022
Re: Atsugiの想い出
年輩海軍機ファンのいう「第一次海軍機黄金時代」でのVA−26機のソリモを高見保市さんが作っておられます。
2021の写真と合わせてご覧ください。

あかつか 2021/05/19(Wed) 19:43 No.2023
Re: Atsugiの想い出
no2022のフォトクーガーはたしかに見たかった飛行機の一二ですね。あとはやっぱりB-36ですけど。でもフォトクーガーは、誰かが描いてらした漫画がホントに見たいなあと思わせる作品でした!
航空写真の滑走路端から右1時方向の黒い点はモーボなんですかね?
それから昔からよく送りの写真に写っているヒマヤラ杉は、3時方向の薄いグレーの点なんでしょうか?いつまであっただろう?調べるの大変だからやめときます。
このスレッドの一連の写真は、航空写真と合わせて見ると、何処で撮ったかが良く解りますね。それにしても、標準レンズが絶大な効果を挙げてます。それに、滑走路が短いから低いこと低いこと。
のらひこ 2021/05/20(Thu) 13:17 No.2024
Re: Atsugiの想い出
>のらひこさん
のらひこさんもフォト・クーガーを「気になるヒコーキ」として位置付けていましたか。
豊中のYさんがCHECKER TAIL4の解説の中でフォト・クーガーの形態を「スコッチテリアのような面構え・・・」と譬えてますが、
尚もイメージを膨らませるとフォックステリアの方に近いかな。
いずれにしても漫画を描くとき誰もが犬を連想したでしょうね。

それはともかく、このKomiyaさんが45mmレンズで捉えたショットは凄すぎます。
想像を越えた写真と言えるのではないでしょうか。 1958年12月29日 Rwy01側にて

あかつか 2021/05/21(Fri) 13:19 No.2025
Re: Atsugiの想い出
このスレッドを見ていると、つくづく、先輩諸氏が望遠レンズを持って居なくてよかったなと思いますね。高くて入手困難だったのでしょうが、お陰で、風情や背景や撮影位置が手に取る様に解りますもんね。最近の方々は逆に標準レンズを持ってきていないかも知れないので、どのような風景の中で撮って居たのか、50年後にはわからないんでしょうね!
のらひこ 2021/05/21(Fri) 19:02 No.2026
Re: Atsugiの想い出
今は立ち入り禁止となっている19側の相鉄線沿いの国有地。
ここは相鉄線に蓋をしたときの残土の後か道路より高く急斜面となっていました。
1971年1月の撮影ですが、道路から少し登ったところから撮影しています。
登った上の狭い場所に雑草が生い茂る中、望遠での場所を確保するのは大変でした。
もう標準レンズでヒコーキを撮影するのは三軍の展示機くらいなものでしょうか。

MACH3 2021/05/23(Sun) 10:10 No.2027
Re: Atsugiの想い出
>MACH3さん
イイですね〜。71年の撮影とのことですが雰囲気は50年代、60年代。当時の写真誌から教わった写真の基本「遠(遠景)・近(近景)・短(レンズ)」が見てとれ、雲もスカイホークの位置のドンピシャ!!オールド写真マニアの小生としては見入ってしまいます。

>のらひこさん
『UE』のフォト・クーガーを忘れていました。
調べによりますと1959年のほんの一時期だけ使っていたようで、それまで写真を見たことなく、
私たちが若い頃も先輩マニアからVU−5の8Pクーガーの話は聞いたことがありませんでした。

CHECKER TAIL3をつくるとき収集した写真の中に板付の三軍記念日に展示されたときのUE−8を発見し驚嘆したなあ。
その後、Komiyaさんが19に着陸する機体を撮っておられて、これにもド肝を抜かれましたよ。
その写真が1959年7月10日に撮影された↓コレ。
この迫力は我々見てきたUE−16“ クロ−セイダ− ”とは比べものになりませんね。

あかつか 2021/05/23(Sun) 10:58 No.2028
Re: Atsugiの想い出
単座と偵察型、複座と練習機。同じクーガーでもこれだけ違う。
機首にカメラを装備し機首が長くなるとバンシーもクーガーも、これが同じ名称を持つヒコーキか!と思うほどグっと“ 男前 ”になります。
空軍機で言えばRF−101A/CとF−101B。
B型は見たことないけどヴードゥーはやはりB型よりA型、そしてRF−101でしょう。
サイドビューでF9F−8PとF9F−8Tを比べてみます。

135mmを持つ人が珍しかった時代の1959年4月29日。TSPCのTodaさんが撮影した8Pクーガー。

あかつか 2021/05/24(Mon) 23:12 No.2029
Re: Atsugiの想い出
続いてF9F−8T。
8TはTF−9Jと名称変更した後も67年頃までよく飛んでいたので見られた方も多かろうと思います。
8Pと8Tを、比較して見るとどうでしょう。機首まわりとキャノピーが変わるだけで、これほど受ける印象が違うのもクーガーならですね。

珍しく給油パイプを外しているMARS−17のF9F−8T。撮影 :Watanabeさん

あかつか 2021/05/24(Mon) 23:26 No.2030
Re: Atsugiの想い出
私をふくめ団塊世代のマニアが実機を最も見たいと思ったアメリカ海軍機といえば、タイガーではないでしょうか。
その理由は61年12月から62年の9月までフジテレビ系列で毎週放映された30分のテレビドラマ「ジェットパイロット」を見ていたからです。(14インチのモノクロテレビで)
毎回のストーリーは思い出せませんが、何と言ってもエンジェルスのタイガーが半分主役なのですから、
タイガーに思いを寄せないはずはありません。オールドマニアにとっては「ブルーエンジェルス」と聞いて先ず思い浮かべるのは
F4やFA18ではなくF11F-1『 タイガー 』なのです。

あかつか 2021/05/26(Wed) 11:05 No.2031
Re: Atsugiの想い出
私の「はじめての厚木」は1962年の8月ですから、その時すでにタイガーは実戦配備から外れており、現役機を見る機会は失われていたのです。
ブルーエンジェルスではF−4と交代する1968年まで飛んでいたものの、外国の飛行場へ撮りに行くことなど考えられない時代でしたのでエンジェルスのタイガーの演技を見たというマニアの話は未だに聞いたことがありません。

そんなタイガーが厚木で飛んでいたのは1961年の前半までで、すぐ上の先輩マニアが辛うじて間に合ったという我々にとっては伝説的ヒコーキでした。

1959年、相模鉄道の架線を掠めて降りるハンコック/CVG11/VF−111のF11F−1 撮影:Nakagawaさん

あかつか 2021/05/26(Wed) 12:50 No.2032
Re: Atsugiの想い出
上と同日、当時の19で撮影する定位置からのショット。これで45mm。 撮影:Nakagawaさん

あかつか 2021/05/26(Wed) 12:59 No.2033
Re: Atsugiの想い出
こちらはOhnoさん撮影の着陸ですが、撮影ポイントはもう少しエンドに寄ったところかも知れませんね。
レンズはおそらく50mm。45mmと50mmの画角の差があって(55mmなら尚)同じ標準レンズとはいうものの5ミリ〜10ミリは当時のマニアにとって結構気になるものでした。

あかつか 2021/05/26(Wed) 13:08 No.2034
Re: Atsugiの想い出
1959年6月の厚木19の周辺風景。 撮影:Fukuiさん
高度があるのでゴーアラウンドかも知れませんが、時が時ならこんな感じで憧れのタイガーを見られたのかなあ、と思うと1年間の「厚木デビュー」の遅れが惜しかった。

エンジンのJ65の性能が期待にそぐわず、後発のF−8が総合的に上回っていたので、空母上でのエースの座は短期に終わってしまいました。日本のFXでもF−104に敗れ悲劇の戦闘機と言えるでしょう。良かったのは実戦に出ての被害が無かったことですね。

あかつか 2021/05/26(Wed) 13:29 No.2035
Re: Atsugiの想い出
19エンドから訓練に飛び立つタイガー。撮影:Anzaiさん
当時のマニアが撮影する19での定位置から200mmで撮影したと思われ、フェンスの状態がよく分かる貴重な写真です。
なぜもっと滑走路に寄れなかったのか?と仰る方もいるかと思いますが、今回写真を整理してみますと畑の手前に「立入禁止」の看板が立っていました。

あかつか 2021/05/26(Wed) 13:41 No.2036
Re: Atsugiの想い出
こちらは1961年8月16日にKomiyaさんが撮影したエンド風景ですが、VF−193のデモン5機がホールド中でフェンスの側まで行けばイイ写真が撮れたでしょうが、警備が厳しくそんな状況ではなかったのです。。
手前の「バラ線」は多分農家が育てた芝を保護する柵で、基地への立ち入りを防ぐものではないですね。基地のフェンスの切れ目がこの写真からも見てとれます。

あかつか 2021/05/26(Wed) 13:57 No.2037
Re: Atsugiの想い出
1958年4月1日、Komiyaさんがエンドへ行きだした初期の頃の貴重な状況写真。
58年以前の写真は少なく、59年にTSPCが発会して東京から厚木へ行くマニアが増加しました。(と言っても一桁)厚木は立川や横田と比べて未知なところもあり、落ち着いて撮影できる状況ではなかったようです。

あかつか 2021/05/26(Wed) 14:40 No.2038
Re: Atsugiの想い出
タイガーは見てみたい飛行機の上位ではありますが、ガッカリする可能性もあるので、一寸躊躇しますね。よくあるじゃないですか!実際に見たらあまりに小さくて、なーんだなんてことが!でもそんな小さな機体にJ−79を積んだんですかね?
no2038の中に写っているヒマラヤ杉は全く記憶に無いんですが、木になります(+_+)
のらひこ 2021/05/29(Sat) 08:57 No.2039
Atsugiの想い出

1961年秋 19エンドより丹沢を臨む photo:H.Gabari

あかつか 2021/05/11(Tue) 14:10 No.1996 [返信]
Re: Atsugiの想い出
私が初めて19エンドに行ったのは1962年8月で、上の写真に写る人のあたりで撮影してました。当然ながら降りる機体だけに目を向けていたので、19エンドの西にこれほど民家が建っていたとはGabariさんの写真を見るまで気づきませんでした。

1964年に相鉄線のトンネルが完成し、65年には県道40号の迂回工事も終りフェンスは道路脇へ移設。マニアたちの寄り場は現在と変わらない場所へと移ったのです。
あかつか 2021/05/11(Tue) 14:52 No.1997
Re: Atsugiの想い出
Chatani Akioさん が撮影されたRW19の風景。
(VMF−312のF8U−1Eが未塗装なので、1960年から1961年頃の撮影と思われる)

CHECKER TAIL4出版時にお借りした写真ですが、これには正直驚きましたね。フェンスの右にわずかに見えるのが当時の県道40号だとすると、道路より南下したところにも撮影ポイントがあったとは写真を見るまで知りませんでした。
1960年から65年まで毎年のようにRW19周辺の様相は変化してますから、私が19エンドへ行きだした1962年、果たしてここで撮れたかどうかは分かりません。すでに柵が広がっていた可能性が高いですね。
南風の午前中は“森の下”に居て、太陽が南中するころ現在もある踏切りを渡り、草っ原へ移動して粘るというのが一日のパターンでした。
それにしても大変グッドなロケ地ですよね。写真も素晴らしいです。

あかつか 2021/05/12(Wed) 13:35 No.1998
Re: Atsugiの想い出
1961年4月21日、上の撮影ポイントより少し南へ寄ったところから撮ったと思われるVF−211のF8U−1。
撮影のKomiyaさんはこの頃すでにミノルタSR−1とコムラー135mmF2.8を使用してますので、135mmでのショットでしょう。
諸先輩方のネガスリーブを随分拝見しましたが、この場所から写した写真はKomiyaさんが撮られたものしかありませんでした。

あかつか 2021/05/12(Wed) 13:48 No.1999
Re: Atsugiの想い出
上と同日にKomiyaさんが撮られたVQ−1のA3D−2Q。
F8U−1を撮ってからこの場所へ移動したのか?または逆だったのか?は分かりません。
右に写っている森の下が我々世代マニアの「寄り場」だったところです。

あかつか 2021/05/12(Wed) 14:02 No.2000
Re: Atsugiの想い出
1963年8月12日、森の下の「寄り場」から撮ったEC−121。そろそろ“午後側”へ移動する時間ですね。
エンドデヴューしたての頃、画面に大きく写る54、118、121の大型レシプロ機をよく撮りました。
121は絵になりやすいので写した回数は54や118より多いですね。

あかつか 2021/05/13(Thu) 14:32 No.2001
Re: Atsugiの想い出
上とは季節が違いますが午後からですと、このように撮れました。1963.4.1
タッチ・アンド・ゴーだったと思うのですが、危うい訓練をしていたものです。相鉄線のトンネルが出来る前ですよ。

あかつか 2021/05/13(Thu) 14:48 No.2002
Re: Atsugiの想い出
1964年の夏のトンキン湾事件より前は、オズワルドが日本でブラウン管を睨んでいようが、U-2事件が有ろうが、キューバ事件が有ろうが、某革新政党のお陰で、平和な国でしたねえ。我々少年も、そのお陰で、ショアポリスに捕まっても丁重に遇された訳なんでしょうか。
実に懐かしい平和な風景ですよ!私も1962年に厚木デビューですが、リコー300ではスカイレイ等はフィルム真ん中にゴミのように、お腹が写ってました。相鉄線の南は滑走路端に近かったけれど、中から丸見えで落ち着かなかったです。やはり林の際に午前中着いて、降りてくる機体の大きさで場所を決め、午後に備えるのが楽しいひとときでしたね。
のらひこ 2021/05/14(Fri) 13:14 No.2003
Re: Atsugiの想い出
>のらひこさん
師匠がまだ若かったころ厚木“ 初遠征 ”した時に捉えた全身シープレーングレイ時代のWV−2です。
ビュアーナンバーが尾翼にしっかりと書かれているのが後のEC−121と違うところですね。

1960年8月の撮影だそうですからペトリ2.8/45mmでの写真と思われます。が、何かぼくらの“ デビュー戦 ”時の写真とは一味違いません?
とても初めての厚木とは思えず、すでに作品づくりを意識しているように見えます。  撮影:Moriさん

あかつか 2021/05/14(Fri) 18:48 No.2004
Re: Atsugiの想い出
200mmを手にするとこんな角度にも挑戦してます。モーボに人影がないところから離陸かT&G訓練でしょうか。
しかしながら狙いは的を得ていて、60年代厚木マニアの郷愁を誘うピカ一の作品ですね。1962年4月27日 撮影:Moriさん

あかつか 2021/05/14(Fri) 19:11 No.2005
Re: Atsugiの想い出
のらひこさんの“ ネライ写真 ”もありましたので、アップさせて頂きました。

1963年7月29日撮影となっていますので、135mmを購入して初めて厚木へ繰り出した頃の写真と見ました。
レンジファインダーの「45mmの世界」しか知らなかった1〜2年を過ぎ、一眼レフと望遠レンズを使いだした日は
「人生で嬉しかったことのベスト5」の一つに入るのではないでしょうか。
夢が叶えられたのです。(私の譬えで恐縮です・・・)

あかつか 2021/05/14(Fri) 19:28 No.2006
Re: Atsugiの想い出
当時の19エンドでは10人程度のマニアさん達でフルメンバーぐらいでしたね
相模鉄道の電柱のそばに座っているのは のらひこさん
1963年4月29日厚木19エンド
このF−6A VMFAW542(WH−19)はT&Gでもしていたのかカメラを構えていませんね

村越賢司 2021/05/14(Fri) 21:27 No.2007
Re: Atsugiの想い出
おお!no2007は木村伊兵衛の作品ですか?あの当時は、特に少年達の「群像」が流行ってましたよね。
ノラヒコは、カメラをかまえたあととも思えませんから、フライパスだったのか、タッチャンだったのでしょうか?スカイレイに飽きると言うおそれ多い状況でもあったんでしょう。
のらひこ 2021/05/15(Sat) 08:18 No.2009
Re: Atsugiの想い出
>村越さん
皆さん揃ってスカイレイにはカメラを向けていませんね。
その頃『 雨が降ろうと槍が降ろうとスカイレイが飛ばない日は無い 』なんてこと言ってた人が居ました。
そのスカイレイが1963年9月に一斉に厚木を去り一機も見られなくなると何故か寂しくなったものです。
そんなセンチメンタルな思いも10月末にマリンコ初のファントムが来日配備されると、すっかりスカイレイのことなど忘れてしまい、
初見参の白いレドームを持つファントムを追いかけ回していました。

↓スカイレイより54の方が気合入れて撮ってるのが見てとれます。
背中のマニアは私のようですから、当日一緒だったのらひこさんが撮影したのでしょう。

あかつか 2021/05/15(Sat) 21:43 No.2010
Re: Atsugiの想い出
54の着陸ということで1959年7月、TSPCのNakagawaさんが19で撮影したVMR−253(QD)のR5D−3/56492を。

ですが、ここではQDの54というよりダットサンの小型トラックのほうが主役でしょう。そしてドアにはFantaの洒落た広告ロゴ。その下に TOKYO SOFT DRINKS CO.LTD と書かれてます。この時代にこうした塗装をしているトラックは珍しかったのではないかなあ。センスも良いし。

調べてみると「ファンタ」が日本で発売されたのは1958年なんですね。戦後、日本で再発売されたコカコーラは1961年からですから、コーラより3年も早くに販売していたとは知らなかった。
1970年ごろからですかねえ、“ ファンタスティック!! ”とかのテレビCMに踊らされファンタをずいぶん飲みました。(特にグレープ)
横道失礼いたしました。 

あかつか 2021/05/16(Sun) 23:41 No.2011
Re: Atsugiの想い出
1958年3月31日の19側の風景。撮影:Komiyaさん(2013も)
画角から判断しますと、Komiyaさんが初めて19エンドで写真を撮った日ではないかと思います。
その訳は、エンド通いに慣れていればもう少し機体に寄った所から撮影したでしょうから。
写っているスカイホークは何とVA-153/Blue Tail FliesのA4D−1(A−4A)ですよ。
「あのとき○○があったなら」などの“ タラレバ ”話は余り好きではないのですが、この写真を見ますと「せめて135mmぐらいで撮れたらなあ・・」
と言いたくなるようなA型スカイホークのカッコ良さ!。

あかつか 2021/05/17(Mon) 19:10 No.2012
Re: Atsugiの想い出
Komiyaさんが同日撮影した19エンドの農地風景。
農家の方の姿、所作から飛行場周辺で畑作が本格的だったことが見てとれます。

写っているスカイナイトはシーブルー塗装からガルグレイになったころのF3D−2ですね。
私ら世代が撮ったスカイナイトはECM機に改造されたF3D−2Q(EF−10B)で、こちらは純然たる戦闘型。
外見上は差がないのですが、WFレターにグっときてしまうのは未だ「海軍機オタク」の精神が宿っているからでしょうね。

あかつか 2021/05/17(Mon) 19:29 No.2013
Re: Atsugiの想い出
おおよそ1ケ月後の58年5月6日、午前の撮影ポイントから捉えたWF−16。スリーブを拝見しましたが残念ながら次のカットはありませんでした。
1958年以前から厚木エンドで活動されていたマニアは、私が知る限り10人も居ないはずですから、厚木へ行く度お一人で撮影ポイントを開拓していたのでしょう。

あかつか 2021/05/17(Mon) 21:01 No.2014
Re: Atsugiの想い出
メジャーリーグで両軍のピッチャーが「三軍統一記念日」に合わせた迷彩の野球帽を被っていたのを見て思い出しました。
いつか当BBSUで50〜60年代の三軍記念日特集を組んでみましょうか。
上のスカイナイトでは機体の全体像がわかりませんので、1958年5月17日に横田三軍記念日で公開されたWFのF3D−2を張っておきます。
撮影はTSPCのTanaka Tsuneoさん。

あかつか 2021/05/17(Mon) 21:12 No.2015
Re: Atsugiの想い出
2013は何時ぞや板付のF-80か何かの超低空の写真にひけをとりませんね。農作業しているひとの無関心さも板付と全く同様ですよ。
2012の左の下に微かに相鉄線の架線が見えますが、これらの撮影ポイントは今の公園から300m以上南ですね。したがって見えている森は団塊の人たちが憩った森ではないんですね!

のらひこ 2021/05/17(Mon) 21:27 No.2016
Re: Atsugiの想い出
>のらひこさん
空撮写真とポイント図ありがとうございます。次スレのトップページに使わせてください。

例の板付での写真というのは、農作業されてるお百姓さんのすぐ上をF−80Bがスレスレに離陸する有名ショットですね。
2013を激トリしてみました。双方の写真の凄さはお百姓さんは軍用機が低く飛ぼうと何もなかったように農作業しているところです。
“ 左利き ”の新聞記者やカメラマンが撮ると子供に耳をおさえさせたり、農家の人に「怒り」のポーズをさせたりと、かつては報道写真家がよく使う手でした。(今もかな)

あかつか 2021/05/17(Mon) 22:01 No.2017
Atsugiの想い出

県道40号とU−2A

あかつか 2021/05/04(Tue) 15:54 No.1974 [返信]
Re: Atsugiの想い出
CHECKER TAIL4掲載のTSPCのNakagawaさんが撮られたU−2Aですが、T.Maさんの写真解説は正にそのとおりで
掲載文のまま張らせていただきました。
U−2Aだけでも珍しい記録写真だと言うのに、1960年以前の19エンド周辺の光景と県道40号の状態が分かるのが大変貴重。
しかも作品としても芸術性に富んでおり、海外のU−2研究家もこの写真見たらきっと欲しがるでしょうね。

U−2が美しいヒコーキと感じるのはA型からC型ぐらいまでで、改造後のU−2RやTR−1はマニアの目からみたヒコーキの“ 美人度 ”がやや落ちるように思えるのですが如何なものでしょう。
あかつか 2021/05/04(Tue) 16:25 No.1975
Re: Atsugiの想い出
U-2は残念ながら見ていない世代ですが、白昼夢のような経験がありますので、ひとくさり?1960年4月、国立にある中学校に入学、初めて履く長ズボンが気持ち悪かったです。そして多分、その年の何時かに、南の方に凄く主翼の長い飛行機が地平線スレスレにUターンするように飛んでいるのが見えました。U-2のことなんか当然全く知らない時期ですから、学校で誰にも話したことはありませんが、国立の大学通りの地図をWEBで出して、その延長線を南に30km伸ばしてみてください。そうです。厚木の滑走路とピタリ重なるのです。飛行機の写真を撮り始めたのはそのすぐあとでして、何人かに話しても取り合ってくれません。「可能性があるよ」とは話を聞いてくれたのはTWさんをはじめ優しい先輩たちでした。撃墜事件のあとは、とってつけたような話になるので余り話さないようになりました。日航機墜落事故の時もそんな経験をしましたけどね。
ケリージョンソンは設計者というよりも、芸術家ですね。C-130、F-104、YF-12・・・でもどれだけ関わったか知りませんが、F-117はイケませんです。
のらひこ 2021/05/05(Wed) 09:03 No.1976
Re: Atsugiの想い出
>のらひこさん
初期のU−2とRB−57Dは私ら団塊マニアが最も見たい、撮りたいヒコーキでしたね。米ソ冷戦真っ只中でのスパイ機。アメリカは存在は認めていたものの詳細は発表せず世界的にも写真が少ない。そんな怪し気な機体が厚木や横田で飛んでいたのですから大先輩マニアの心の内は尋常ではなかったでしょう。
藤沢事件後のU−2がソ連で撃墜されたり、ケネディ暗殺事件のオズワルドが厚木のWRSP−3で働いていたりと、日本の基地は世界的大事件の裏舞台でもあったのですね。

下の写真と1968の写真と比べてみてください。
大和へ向かう相鉄バスを越えてU−2が降りて来た! ということは撮影ポイントは県道40号より滑走路へだいぶ寄ったところになります。
1959年8月 撮影:Y.Ohnoさん

1960年2月から6月のオーバーラン工事後01側エンドの光景は私らも見てきたし、当時の写真で判っています。
ですが、19側の周辺状況(撮影ポイント含め)は1964年11月、相鉄線のトンネル完成まで1〜2年ごとに変っていたようで、
そのころの「大和側」を見てみましょう。

あかつか 2021/05/05(Wed) 13:01 No.1977
Re: Atsugiの想い出
下は1959年8月撮影となっているのですが、上のU−2とは別機です。
撮影日と同じなら1日に2機のU−2が撮れたわけで、幸運としか言いようがないですね。

相鉄線のトンネルが無かった時代、分割画像の上段の左下には架線が見えます。
緊張の1枚目。カメラは何だったのでしょう?いくらU−2の着陸スピードが遅いとは言え、ノブ式のフィルム巻き上げでは連写は無理でしょう。
よってカメラは6×6判ではなく、レバー式の35mmカメラに違いありません。

あかつか 2021/05/06(Thu) 09:17 No.1979
Re: Atsugiの想い出
視界を右に移すと広大な自然公園のような景色が展開していました。
当時の周辺状況を判り易くするため別画像を左右に分けて貼ってみます。
私ら駆け出しマニアの頃の真夏時、R4Q−2の下に写る森の木の下が日陰となって休憩場所兼撮影ポイントでした。

あかつか 2021/05/06(Thu) 09:36 No.1980
Re: Atsugiの想い出
1977の連写画像が下の2カットです。(真ん中のショットは省略)
ここで判明したのは着陸コース上にフェンスが立てられてないことです。
1960年以前のRW01側も同様でしたから、ジェット化による滑走路の延長を急いだのも分かりますね。

あかつか 2021/05/06(Thu) 09:53 No.1981
Re: Atsugiの想い出
1959年4月、TSPCの創設者Fukuiさんが撮影したエンドの風景。

手前に拡がるのは麦畑でしょうか。黒煙を吹き上げ離陸するVAH−4のスカイウォーリア。フェンスにかじりつくように見ている3人の少年。
一見ただのスナップのようですが、画面構成、シャッターチャンス、作品として見事に仕上げております。
TSPCは「東京・スカイ・フォト・サークル」の略称ですから写真のクラブでもあったわけです。

あかつか 2021/05/06(Thu) 11:48 No.1982
Re: Atsugiの想い出
一面の青い麦畑に少年達とA-3!!!カラーで見たい写真ですね。昔、1956年4月13日の航空写真を張りましたが、スパムで流失したようなので、又張りますね。1959年との3年間で基地内でのランウエイの延長と誘導路の付け替えがあったようですね。A-3と柵との距離が近いですものね。

のらひこ 2021/05/06(Thu) 18:03 No.1983
Re: Atsugiの想い出
のらひこさん、航空写真ありがとうございます。
下のTodaさんが1959年に撮られた19エンドの写真とFukuiさんの写真と比べると、フェンスの形状や警告看板の取り付けが変わっていたり、時期によって細かな点で違いが見られますね。

No.1982の写真みて「少年たちのところで撮れば良いのに」と思うマニアも居るでしょうが、もしそこでカメラを出せば基地内からSPが飛んできて
“ 捕らわれの身 ”となることを当時のマニアは知っていました。とてもカメラを向けてフェンスに近寄れなかったのです。
下のWV−2も遠目から135mmで撮影されていますね。

あかつか 2021/05/07(Fri) 14:07 No.1985
Re: Atsugiの想い出
当時の厚木は草がお生い茂っていてその中で先輩マニアの姿が写っていて当時をうかがわせるショットですね
ケネディ暗殺事件➡オズワルド➡U-2➡厚木基地と連想してしまう自分ですが、WRSP−3とは何ですすか?勉強不足私に教えてくさい。
ken 2021/05/08(Sat) 13:12 No.1986
Re: Atsugiの想い出
>kenさん
WRSP−3とはWeather Reconnaissance Squadron Provisionalの略で厚木にはDet.3が置かれました。表向きは気象偵察飛行隊を名乗ってましたが、実際はU−2をもってソ連、中国へ高々度偵察を行うCIA傘下の偵察部隊で、米・ソ冷戦の行方を左右するような危険なミッションを厚木から行っていたのです。厚木が他の基地と比べて警備が厳しかったのはWRSP−3が駐留していたからでしょうね。詳しくは「世界の傑作機〜ロッキードU−2ドランゴンレディ」をご覧ください。U−2と厚木のことが大変分かりやすく書かれた名著だと思います。
あかつか 2021/05/08(Sat) 17:27 No.1987
Re: Atsugiの想い出
1956年11月3日、離陸するVA−212のF7U−3カットラス。撮影:Shimozatoさん

CHECKER TAIL3をはじめ航空専門誌等で何回となく発表されていますのでご覧になったマニアも多かろうと思います。
ここでは56年のRW19周辺風景が分かるよう原版のままトリミングなしの画像を紹介させていただきました。

フェンスの位置は59年時と変わっていないようですが、フェンスというより単なる「人除けの柵」と言ったところ。
カットラスの写真も“ 超 ”が付くほどレア物なのですが、戦後11年しか経ってない1956年(昭和31年)に厚木のランウェイ・エンドで
海軍機の写真を撮るマニアが居たというのが自体珍しいことなのです。

あかつか 2021/05/09(Sun) 13:40 No.1988
Re: Atsugiの想い出
当時から名古屋にお住まいだったShimozatoさんは、初の「厚木遠征」であったと思われます。
初遠征でいきなり最新鋭のカットラスの離陸に出くわしたのですから心中穏やかではありません。
そんな中、6×6判75mmの標準カメラでしっかりと撮影できたことは写真キャリアが豊富だったからでしょう。
それにしても低い離離ですねえ。

撮影カメラのフジカ・スーパー6は小西六のパールWと並んで蛇腹式の上級機で、1955年発売時の価格は24500円。
その年の公務員初任給(大卒)が8700円ですから、いかに高級なカメラであったかが分かります。
若い人には理解できないかも知れませんが50年代の中頃まではカメラを持つ人自体少なくせいぜい2〜3軒に1台あれば良いほうでした。よってカメラは父親の“ 宝物 ”扱いで子供には触らせない家もあったのではないかなあ。

(追記/訂正)Simozatoさんの厚木初遠征は1956年の5月でした。従ってカットラスは2度目の遠征時に撮影されたものでした。m(_ _)m

あかつか 2021/05/09(Sun) 15:57 No.1989
Re: Atsugiの想い出
スペードのエースを出してきましたね。Shimozatoさんも流石に怖くて、里芋畑に隠れて撮っているんですかね?それにしても凄い写真です。兵装から言ってスクランブルでは無いのかも知れませんが、名古屋から、日本の休日を利用して、凄いチャンスをものにしていますよね。スーパー6ってレバー巻き上げなんですか?ものすごいスピードの編隊を連射出来るんですね。このスレッドを見ていると、配備戦闘機の性能アップに従って滑走路の延長をしていったことがよく判りますね。最後にF-4を迎えるために、私が歯ぎしりする、全面工事による横田NAVY祭りがあった訳でしょう!!!
のらひこ 2021/05/09(Sun) 21:45 No.1990
Re: Atsugiの想い出
>のらひこさん
1988〜1989は連写ではないですね。
念のためNo.1989を激トリするとG−207だということが分かります。
それにしても、数十年先どりしたようなスタイルで、団塊マニアに「一度は見てみたかった米軍機を挙げよ」と問われれば
B−36と共にカットラスは間違いなく入るでしょう。

同じ垂直尾翼が2枚の戦闘機でもF−22やF−35よりF7Uに魅力を感じてしまうのは、いかにも人間が設計したモノであるのが機体から伝わって来るからですね。(♪ 古い奴だとお思いでしょうが)

あかつか 2021/05/10(Mon) 00:02 No.1991
Re: Atsugiの想い出
>のらひこさん
1988からの2枚目はたぶん下のショットですね。

フジカ・スーパー6は最も進化した蛇腹カメラでノブ式のフィルム巻き上げにもかかわらずセルフコッキング(かなりの死語)を装備していました。
それまでの蛇腹カメラ(多くの2眼レフも)はフィルムの裏に印刷されていた番号を小さな赤窓から覗いて合わせ、シャッターをセットしてボタンを押す。とう、いかにも原始的な操作の機種が大半でした。そんなことから撮影の度に記録をメモしておかないと、二重露出になりやすく泣くに泣けない失敗をした人も多かったことでしょう。

フジカ・スーパー6はフィルムのコマを送ると自動的にストッパーが掛かり二重露光を防ぐという“ 画期的 ”な装備を持っていたのです。
そんなことから、蛇腹式6×6カメラでありながらセルフコッキングのおかげで離陸を二コマ撮れたのでしょうね(それでも凄すぎる神業)
フィルムは12コマしか撮れませんし、撮影の結果は現像するまで分からない。現像後写真にするのですが、ここでも薬品や印画紙の選定があって最後まで気を抜けない作業が続きます。写真技術がデジタル化した現在、全ての作業がずいぶん楽になったような気がします。

あかつか 2021/05/10(Mon) 21:55 No.1992
Re: Atsugiの想い出
フィルム面積が大きいと「激トリ」してもカタチになりますね。
こうして見ると1950年代のアメリカのSF映画に出てくるようなキャラクターに見えませんか?。
カマキリの怪獣が斧振り廻して襲ってくるような・・・。

あかつか 2021/05/10(Mon) 22:07 No.1994
Re: Atsugiの想い出
no1992,1994の写真は物凄いですね。世界で基地外でこんな写真撮った人はいないんじゃないでしょうか!それにしてもF○Uの飛行機達は、戦前も含め実にユニークですよね。翼の下に胴体ぶら下げた飛行機も厚木に沢山居ました。
のらひこ 2021/05/11(Tue) 07:13 No.1995
Atsugiの想い出

昭和30年代の大和駅

あかつか 2021/04/22(Thu) 09:32 No.1951 [返信]
Re: Atsugiの想い出
いつごろ撮った写真なのか不明ですが1960年頃ではないかと思います。左のバスはボンネットバスのベストセラー車、1959年式いすゞBX352のようで、タクシー待機所には観音開きドアのトヨペット・クラウンが写っていますね。
この駅舎は何年頃まで有ったのでしょうか?。私が電車で “厚木通い” していたときの記憶ではこの大和駅しか思い当たりません。

還暦過ぎのマニアにとりましては、この大和駅に懐かしい思い出をたくさんお持ちでしょう。
新宿から小田急線に乗り相模大野を過ぎるころ、窓越しに西の空を見つめ航空機の姿を必至に探します。風は北なのか?南なのか?。
着陸する機体があれば大和で降りてRW19エンドへまっしぐら。
風もなく一機も確認できなかったときは、大和駅の小田急ホームに佇み飛行場方面に目をこらし、離陸する機体があれば次の各停を待って桜ヶ丘へ向かおうという算段。
しかしながら何も飛ばない時間帯もあり、そんなときは離着陸する機体を確認できるまで何分もの間ホームから西の空を見つめていたこともありました。

車もエアバンドラジオも無かった時代は、自分の目だけが頼りでした。こんな時代が楽しかったと思うのは、何でもできる今の時代とは違う『不便さ』が、60年代のマニア心を昂ぶらせていたのです。
あかつか 2021/04/23(Fri) 15:00 No.1952
Re: Atsugiの想い出
航空情報1962年12月号 読者写真コンテスト入賞作品

あかつか 2021/04/23(Fri) 15:17 No.1953
Re: Atsugiの想い出
選者の評はさて置き、bP906ハッチさんの「リバース」とともに、当時の飛行機写真ファンから大好評だった大和駅ホームから写したこの作品。
理由はVQ−1と厚木基地の物語性というだけではなく、厚木へ通うヒコーキ写真マニアの心模様まで1枚の写真の中に凝縮されているからです。あの辛口航空評論家として名高いNagakubo氏さえもが絶賛したという文句なしの傑作。

下はCHECKER TAIL4に掲載させて頂いた写真ですが、お借りしたプリントと上のコンテストの応募写真とトリミングに違いがあります。
きっといくつかの案があったのでしょうね。

あかつか 2021/04/23(Fri) 16:36 No.1954
Re: Atsugiの想い出
大和の駅、全く覚えて居ませんねえ。良いですか!そもそも相模大野辺りから座りもせずに、進行右側のガラスにへばり付いて、南風なら改札ダッシュでしたし、帰りだって、耳も意識も後ろ向き、妙なもので、良いのが降りてこない事を祈りつつ、階段を上がりました。
WV‐2の写真、これは覚えてますね。丁度、のめり込んで居る時代、学校なんかついでに行くと言う感じでしたね。寸評は結構参考にした記憶があります。ああ半分は駄目なんだな位でしたけど。確かに光芒と線路のどっち付かずですよね。no1954の方が決まってます。しかし、Fにオレンジフィルターですよ!!!わかんねーだろうなあ!
のらひこ 2021/04/24(Sat) 11:33 No.1955
Re: Atsugiの想い出
>のらひこさん
↓は、ネオパンFにオレンジ・フィルター付けて撮ったものですが、露出がややアンダー。
“駆けだしマニア”のときの写真で航空情報の「私のアルバムから」の作品スタイルを意識してますね。
そんな考えも望遠レンズを入手した頃には、被写体を画面に大きく入れることに夢中になり、こうした写真を余り撮らなくなりました。

あかつか 2021/04/25(Sun) 12:23 No.1956
Re: Atsugiの想い出
そうですねえ。望遠レンズを手に入れた当初は、画面にピッチリ納められる快感に浸ったもんです。しかし、何か物足りない感じがして、それに本屋で立ち読みする写真雑誌の緑川や奈良原の影響も少しうけて、それに榎本アニイの全く初めての写点にもビックリしてから、超望遠から広角から、赤外からコピーフィルム迄、飛行機を素材にしつつ、色々試したもんです。
no1956、良いですねえ。白雲の上のWV‐2,それに麦わら帽子!役者が揃ってます。今思うとWV‐2は色々使える被写体だったんですね!
右側の学生帽はTWさんでしょうが、カメラも向けずに見送ってます。
のらひこ 2021/04/27(Tue) 13:24 No.1957
Re: Atsugiの想い出
>のらひこさん
そう言えば近年「写真芸術」なる言葉を聞かなくなりました。戦後写真ブームの中、巨匠、名匠、奇才とか呼ばれていた写真家の先生方の新作にマスコミはじめアマチュア写真家も注目していたものです。そうした作品を後押ししていたのが写真専門誌業界でしたね。先日、アサヒカメラに次いで遂に日本カメラまでが休刊(実質廃刊)となり一つの時代が終ったなあ、と寂しく思いました。

↓三軍記念日を除けば60年代のヒコーキマニアがめったに乗らなかった相鉄線の海老名行き電車。
たぶん、19エンドに行く途中何の気なしに撮ったのでしょう。1965年の撮影で、これだけ年月が経つと貴重な史料となるのが写真の面白さ。相鉄線の大和の先はまだ単線で海老名行きは1時間に1〜2本ぐらいだったと記憶してます。よって、ときにはランウェイエンドの撮影ポイントまで線路上を歩いて行ったこともありました。

あかつか 2021/04/27(Tue) 21:29 No.1958
Re: Atsugiの想い出
鉄道敷地内に侵入すれば法律で罰せられるのは今も昔も同様ですが、19エンドまで行くのに線路上を歩けたのは、電車の本数が余りにも少なかったからですね。
一度通過電車に遭遇し警笛を鳴らされ、線路ののり面に降りて通過するのを待ってました。そんな事があってもさして問題にならなかったのは世の中大らかだったんですねえ。

地元アツギマニアの大御所Kondohさんも線路上で[VM]のフューリーを撮っています。1957年3月

あかつか 2021/04/29(Thu) 14:00 No.1960
Re: Atsugiの想い出
尊敬する先輩マニアのT.Watanabeさんも線路上で撮影しております。
このショットは「線路を歩いていたら偶然降りてきた」と、いう感じではないですね。
狙い込んだアングルと見ましたが実際はどうだったのでしょう。
64年3月6日の撮影ですから降りるVF−21のファントムはまだ貴重な存在。
そんな珍しさよりも“ シャシン ”にコダワリを見せたWatanabeさんらしい作品です。

あかつか 2021/04/29(Thu) 14:14 No.1961
Re: Atsugiの想い出
足元の悪い線路上を歩かず19エンドへ行くには大和駅から県道40号を真っ直ぐ行けば距離的には一番近かった。
しかしながら当時は舗装はされてないし朦々とした砂埃を浴びて歩かざるをえず、誰もが一度で懲りた道でした。
そんな光景までもフィルムに収めていたWatanabeさんは、やはりホンモノの『写真家』でした。63年7月30日

あかつか 2021/04/29(Thu) 14:53 No.1962
Re: Atsugiの想い出
あかつかさん、
もう時効で良いですよね
大和駅に向かう途中で降りてきたデモン
1963年4月5日 たぶんVF−54のF−3B(NF)
カメラはバッグにしまわずに後ろ髪を引かれながらも帰路につきました
No.1953のイメージがあるのでしょうね、線路の反射を入れ込んでいます

村越賢司 2021/04/30(Fri) 00:39 No.1963
Re: Atsugiの想い出
村越さん、良いですねえ!太陽と線路が上下にうまく納まってデモンも架線にかからず素晴らしい!私も線路を何度か通ったと思いますが、余り思い出無いです。スリーブに埋ってるかも。考えて見ると、電車とすれ違った記憶が無いので、ホントに便数少なかったんでしょうね。no1961は、流石に保線員の前に出られず、良いポジションを取れなかったんでしょうね。優しい人ですもん。
のらひこ 2021/04/30(Fri) 11:08 No.1964
Re: Atsugiの想い出
村越さんも線路の上で撮ってましたか。私もエンドへの往復はカメラをバッグにしまわずに歩きましたが、
線路上での撮影機会はありませんでした。何が降りてくるか分からなかった時代でしたから帰りの電車に乗るまでは気が気でなかったですね。

相模大塚から大塚本町(現在のさがみ野)間の複線化が1966年で、海老名までは1974年となってます。
その頃には電車の本数も増加し、マニアたちも車やバイクで来はじめてましたから線路上を歩く人は居なくなりました。
従ってランウェイエンドまで線路を歩いて行った経験のある人は相当なオールドマニアと言えましょう。

もう一つの19エンドへの行き方は、草柳小学校前を通る道でした。当時その道が舗装されていたかは記憶にありません。
下の写真も道すがらカメラを肩から下げ、撮影ポイントまで歩いているとき降りてきたA3を撮ったものですね。
木造校舎とA3Dが見事にマッチしていて大和市史に使えるような歴史的写真だと思います。
1960年 撮影:TSPC Suguiuraさん

あかつか 2021/04/30(Fri) 16:11 No.1965
Re: Atsugiの想い出
何時も通ってた草柳小学校だけど、「ソウヤギ」と読むって知ったのは、又飛行機始めた20年前でした!
のらひこ 2021/04/30(Fri) 19:37 No.1966
Re: Atsugiの想い出
1963年4月29日の天皇誕生日(昭和天皇)にIchijohさんが撮影されたエンド付近の光景。相鉄バスが大和駅へ向かっています。
バスが走る県道40号と相鉄線との間(現在は基地内)が1965年以前の19側撮影ポイントでした。

バスは偶然通りがかったのでしょうが、バスが写っているのと、いないのでは大違いですね。
フィルムはセミ判でしたので35mm換算にすると55mmぐらいでしょうか。素晴らしい作品となりました。

あかつか 2021/05/01(Sat) 17:51 No.1968
Re: Atsugiの想い出
同じくIchijohさんが1962年8月24日に撮影されたWV−2Q。
この低さに驚いてください。大型機を見ることが少なかった当時の厚木ではWV−2(EC/WC‐121)は写真を撮るには恰好の被写体でした。
1964〜5年頃から翼端に増槽を付けた機体が少なくなってきましたが、やはり121は増槽が付いていたほうがグッと締まりますね。

あかつか 2021/05/01(Sat) 18:26 No.1969
Re: Atsugiの想い出
no1969,参りましたよ!ずっと前のフューリーの低さどころじゃ無いです。手前の灌木のなびき方と8月24日なら台風前後の強風時かなと思って調べましたが、当時の気象をみるとそばに台風も無いですね。真空管何万本も積んでるんでしょうから、きっと40トンは有った筈。未だダウンバーストなんて言葉も無い時代でしょうから、落っこちてたら、Ichijohさんも危なかった!しかし、中3?位の飛行機少年が見事にWV‐2の重量感を捉えてます。これもセミ版だとしたら、カメラ、レンズを少しは知っている人たちから見たら、顎がはずれるほどの写真ですね。
のらひこ 2021/05/02(Sun) 08:51 No.1970
Re: Atsugiの想い出
>のらひこさん
上のPR24/135647は3年後の1965年8月20日、厚木で着陸事故を起こしスクラップとなりました。イヤハヤ冷や汗モンでしたね。

下はCHECKER TAIL4の表3にも掲載せていただいた着陸写真ですが、液晶画面ですと細部も分かり益々素晴らしく見えます。
撮影日がNo1968と同日ですので、T&Gを何回か行っていたのでしょう。
撮影位置を変え二人の少年を入れ込んだ判断。そしてこのアングル。社会人になられてから工業デザインの世界で名を馳せたichijyouさんの才覚はすでにこの頃から発揮されています。

あかつか 2021/05/02(Sun) 16:47 No.1971
Re: Atsugiの想い出
#1965の木造の草柳小学校なつかしいですね。
木造でしたが、窓は騒音対策で二重でした。(効果はなかったけど)
休み時間は窓と窓の間に入って遊んでいました。
相鉄線の架線に引っかかり墜落した事件では、この窓から黒煙が見え放課後は先生の注意を無視し寄り道で見物した生徒が多かった。
TBSが騒音中の授業風景を取材に来たこともありました。
この校舎の写真左側(西側)1階端の1部屋が在日朝鮮人のクラスでした。
「この世の楽園」を目指して帰国した時には、彼らを日本人生徒先生が校門まで列を作り拍手でサヨナラしました。
朝鮮の先生の四角い顔は今でも覚えています。
皆さん生きているのかなぁ?

MACH3 2021/05/03(Mon) 15:53 No.1972
Re: Atsugiの想い出
>MACH3さん
草柳小学校はMACH3さんの少年時代の母校だったのですね。
私の小学生時代の校舎ももちろん木造で、掃除の時間は廊下の床を蝋を塗って磨いていました。
小学校(川崎市内)は二度転校しているのですが、臨海工業地帯の学校にいたときは朝鮮の生徒も大勢いて、
そのころ一緒に遊んでいた同級生たちも何人かは帰国事業で北朝鮮へ渡ったんではないかなあ。
映画「キューポラのある街」(1962年/日活)では少年のころの私を見ているようで、懐かしくもあり、また悲しくもあります。

予告編を見ただけでも涙してしまう今日この頃です。
https://www.youtube.com/watch?v=5XnvN2KBvLs
あかつか 2021/05/03(Mon) 23:39 No.1973
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